えと、まずは下記のエントリを読んでいただきたいのですが。
ま、エントリタイトル通り「クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶモーレツ!オトナ帝国の逆襲」の感想なんですが、「クレヨンしんちゃん」の映画は一時期、「あきらかに大人向け」かはさておき「大人が見てもそこそこ楽しめますよ」という作風になっていました。
この「オトナ帝国」もだし、次作の「嵐を呼ぶアッパレ!戦国大合戦」も大人の観客を意識していた。いや製作者が何と言おうと「意識なんてしてない」とは言わせない。

アタシがこれから書きたいのは、そもそも「大人向け」とか「大人の鑑賞にも耐え得る」ってどういうことなんだろ?という話です。
だから別に「クレヨンしんちゃん」の映画だけを槍玉に上げるつもりはない。たしかにリンク元のエントリでは「オトナ帝国」について相当辛辣に書いてるんだけど、それとこれとは別です。
とにかくね、「オトナ帝国」同様、似た躓き方をしたフィクションはかなりあると思うわけで。
数年前に(いやもう10年以上か?)流行った「妖怪ウォッチ」は「ある意味大人向け」と言われたアニメです。
何しろアタシは見てないので言及は避けるけど、とにかく「子供が見ても知らない、大人にしかわからないギャグ(パロディ)が多量に含まれていた」らしい。
もしかしたらそういうのも「大人向け」ってことになるのかもしれないし、「クレヨンしんちゃん」で言えば「戦国大合戦」は異様に時代考証にこだわっており、もちろんフィクションとしての誇張はあるにしても大人が見て「そこ、おかしいよ」と思える箇所を徹底的に塗り潰していったらしい。
どちらも「子供にはわからない、しかし大人ならわかる」類いのものですが、やっぱどうも、モヤモヤする。つまりね、本来の観客対象者であるはずの子供を「置いてけぼり」にして、大人だけが楽しめる要素を入れるって、それはいったいどうなのよ?と。
親子にとってありがたいのは、ドロシー・ラムーアのサロン姿が総天然色で拝める「ジャングルの恋」とワイズミュラーの「ターザンの猛襲」の二本立てで、父親はドロシー・ラム?アを楽しみ、ぼくは象の大群を楽しんだ。(小林信彦著「一少年の観た<聖戦>」)
ま、これは二本立ての話ですが、親子連れで映画を観に行って、まったく別の楽しみ方をするというのはアリっちゃアリなのです。
しかしこうしたターザン映画は多少子供向けという要素はあるにしろ、そこまで観客対象者を子供に絞ってるわけじゃない。つまり大人向けとも子供向けとも謳われていない。
しかして映画「クレヨンしんちゃん」はどうでしょう。さすがに大人が単独で観に行こうと思う類いの映画だとは思えず、やはり、どこまで行っても観客対象者は子供なんですよ。
その子供が置いてけぼりになるシーンが散りばめられているって、そりゃないんじゃない?と思ってしまうのはしかたがないでしょう。
少なくとも藤本弘先生、つまり藤子・F・不二雄が存命の頃までの映画「ドラえもん」はそうしたことはしなかった。
もちろん大人が観ても楽しめるんだけど、だからといって「子供にはわからない、大人だけがわかる」要素をブチ込むとか、そういうことはほとんどなかった。
例えば「本当はマニアックな藤子不二雄」に実例とともに「実は両藤子不二雄先生とも、かなりマニアックなギャグをブチ込んでいる」と書いたのですが、たしかに「子供にはわかりづらいギャグ」というのは皆無ではないんですよ。というか安孫子素雄先生の「フータくん」の「歩くうた」にしろ「ドラえもん」の「恐妻節」にしろ「大人向け」というよりは大人でさえほとんどの人がわからない、ただのマニアックネタです。
つまりこれは一種の「お遊び」であって、大人だけがわかるネタをブチ込もうとしたわけでも何でもない。
当然のことながら映画「クレヨンしんちゃん」の一部の作品はこの範疇を超えている。しつこいけど見たことがないから確証はないけど「妖怪ウォッチ」も大人にしかわからないギャグが<多量>に入っていたらしい、となると、やっぱり子供向けの範疇を超えてる気がするんです。
藤本弘先生は「子供でも一定の理解は出来る。しかし大人が見ればより<深く>理解出来る」という<やり方>であり、アタシはね、これこそが本当の「大人向け」じゃないかと思うんですよ。
それこそ「複眼単眼・大長編ドラえもん のび太の大魔境」でも書いたんだけど、終盤のジャイアンのあの決断と行動ね、あれも子供だってわかるのはわかるんですよ。実際アタシも子供の頃にこのシーンで感銘を受けた。
しかし大人になってこのシーンを読むと、さらに胸に突き刺さってくる。それは大人になればなるほど、ジャイアンの決断と行動がどれほど重いものなのか、実体験が走馬灯のように蘇ってきて、他人事とは思えなくなるからです。
ぶっちゃけ、大人になると本当に不便で、見たくないモノまで見えるようになってしまう。いやもっと単純に物事を楽しみたいんだ!といくら願ってもそうはいかなくなる。
浦安にある某テーマパークに行ったりなんかしてもシンプルに「すげぇ!」では済まなくなるかっつーか、この造型は大変ものだ、相当な技術が盛り込まれている、なんてどうでもいいことを考えてしまう。
それで悦に入ってしまう人は、アタシから言えばまだ本当の大人になり切れていない。ま、すぐに「デンツーガー!」とか言っちゃうような人というか。
本当の大人なら「何でこんなことばっかり気にしちゃうんだろ。本当はもっともっと純粋に楽しみたいのに」と思ってしまうんです。
アタシが書いてる駄文とかアタシのYouTubeチャンネルとか最たるものだけど、実はこういう視点もあるよ、とか、こんな制作経緯があって、それを知ってたら、なんて本当は余計なこと以外の何物でもないんです。
出来ることなら、そんなくだらない情報とか豆知識抜きに、差し出されたモノにたいして笑ったり、怖がったり、泣いたりしたいんです。
でもそれが出来ない。見えないモノが見えてくるようになるとか、何だか人間として進化してるような錯覚に陥るけど、これはあきらかに退化です。
だからこそ思うんです。
アタシは正直ジブリには興味がない。何で興味がないんだろ、と思った時に「何だか非常に中途半端に見えてしょうがない」からじゃないかと。
「となりのトトロ」に登場するトトロは「子供にしか見えない存在」という設定です。しかしね、それはとても浅いんじゃないかという気がしてならない。つか実はものすごく大人の目線で作られているような気がする。少なくとも藤本弘先生の作品よりは。
大人になって子供の頃を振り返った時、とくに一定の年齢以上の人なら「本当に何もなかったのに、何で子供の頃ってあんなに楽しかったんだろ」と考えてしまうことはわかるんです。ま、アタシは子供の頃が楽しかったとか思ってないから別だけど。
でもそこで「楽しかった理由」として「きっと大人になったから見えなくなったモノが何かあって、それが見えていたから楽しかった」ってするのは、どうもね、アタシは違う気がする。
これは「ピーターパン」にも言えることなんだけど、ある意味子供を過大評価してるというか、「子供=大人には見えないモノが見えるから楽しい」という発想で作られているわけです。
アタシは基本的に若ければ若いほど優秀だと考える人間です。っても「トシヨリより若者の方が優秀だ」ってんじゃなくて「一番優秀なのは赤ちゃん」だと思ってる。つか若者だろうがなんだろうがハタチを超えたらトシヨリとたいして変わらない。
ちょっといつの放送か記憶にないのですが「探偵!ナイトスクープ」で「赤ちゃんラッパは吸っても鳴るか」という回があった。

「赤ちゃんラッパ」ってのは↑ですが、赤ちゃんだろうが大人だろうが吹けば音がなる。当たり前です。
しかしナイトスクープで検証されたのは「赤ちゃんはこのラッパを<吸って>も鳴るのに、大人はいくら頑張って<吸って>も一向に音がしない」という。
要するに、こと<吸う>という力にかんしては大人よりも赤ちゃんの方が強いらしく、というか母乳から栄養を得る必要があるので、そういう能力が長けているのです。んで母乳を必要としなくなるにしたがって、だんだん吸引力が衰えていく、と。
要するにこれは普通に人間としての力だったり能力の話であって、オカルト的なことではない。
若い頃、と言っちゃうと誤解を生みそうなんで言葉を変えるけど、幼き頃にたいして「恐るべき<未知>の能力を持っていたに違いない」という発想は非常に危険な気がするんです。
それこそトトロのような妖精に近い生物が見えるなんて典型的な<未知>の能力じゃないですか。何だかね、そういうことじゃないだろうと。
赤ちゃんの頃は、未発達な箇所が多いとはいえ人間が本来持つ能力を有していた。しかし使われないとその能力は次第に衰えていく。当然経年劣化でも能力は衰える。
その結果、幼ければ幼いほど長けたことがなくなっていく。しかしそれはオカルト的な<未知>の能力ではない。
そして厄介なことに、人間ってのは生きていく毎に経験なんてものが積み重なる。一見賢くなったみたいな錯覚に陥りがちだけど、余計な、見えなくていいモノまで見えてしまうので物事を純粋に楽しめなくなる。
アタシはそういうことだと理解しています。
いやね、だからこそ思うんですよ。
「となりのトトロ」のように「子供にしか見えないモノ」をテーマにするんじゃなくて、むしろ「大人にしか見えないモノ」をテーマにした方がいいんじゃないか、と。
子供を過大評価しすぎるな、というのは、その能力ってものの大半は「大人になるにつれ衰えていく」ものだからです。しかもあくまで比較論なんで、他の子供と比べて優れているかで決まってしまう。
そうじゃなくて、ある意味もっと現実を見せた方がいい。
藤本弘先生の作品からもうひとつ「パーマン」の「パーマンはつらいよ」の回なんかその典型です。
これもね、いわば「大人ってこんなことの繰り返し」なんですよ。
ミツ夫は子供だから曖昧にしか答えられないけど、大人は「ちょっと理屈に合わないことがある」と頭では理解しながらも、見えなくていいことまで見えてしまうので、どうしてもそれを無視出来ない。結果、自分の限界を超えてでも頑張ってしまう。
そういうことは子供には理解出来ない。だから大人を「非効率で無駄なことばっかりやってる頭の悪い連中」と見下す。でも実際は一見非効率に見えても「そういう手順でやんなきゃいけない理由が見える」からそういう手順でやってるだけで、頭が良いか悪いかは何の関係もない。
しかしそれが子供にはわからない。だけれども別にわからなくてもいい。どうせいずれわかるんだから。
でもね、何も必要以上に「子供はすごい!」と高らかに謳う必要もないんじゃないか。すごいっちゃすごいけど、どうせすぐに衰える能力だし、ましてや成人して以降なんて衰える一方というかすでに消失した能力のが多くなってるくらいなのに。
今回はたまたま映画「クレヨンしんちゃん」とか「妖怪ウォッチ」とか「となりのトトロ」をあげつらう形になったけど、結局何が言いたいのかというと、やっぱり藤本弘先生はすごいわ、と。少なくともこれらの作品を見るに、先生の考えははるか先を行ってるわと。
藤本弘先生は子供アゲなんかしないもん。同時に馬鹿にもしてないし、ちゃんと子供ならではの能力(とくにのび太の既成概念にとらわれない発想とか)はちゃんと描いた上で、でも「ドラえもんはのび太やしずちゃんたちにしか見えない」なんてふうにしてない。ちゃんとパパにもママにも見えている。
もう一度言いますが、そうした土台をちゃんとやった上で初めて「大人の鑑賞にも耐え得る」作品になると思うわけで、大人にしかわからない小ネタを入れたりって、それはやっぱ、違うよね、としか思えないのです。
アタシは藤本弘先生とはまた違った角度からの、本当に大人の鑑賞にも耐え得る子供向けフィクションが見たい。超絶ヒットした映画「鬼滅の刃・無限列車編」なんかには確実にその芽はあると思ったからやれないことはないと思うんですがね。

