いや、もう人の人生なんて本当にわからないもので、2026年2月から<姿出し>(<顔出し>ではない)で某チャンネルに出演することになりましてね。って自分のチャンネルでも一切姿を出してないのに。テキストの方を含めても出してるのは幼少の頃と、10数年以上前の、しかも顔を隠したのだけなのに。

それはともかく。
他人さんのYouTubeチャンネルに出演するにおいて、ひとつだけ、めちゃくちゃ留意していることがあります。それは「なるべく番組のトーンや視聴者さんのイメージに合わせる」という。
アタシはまァ、突然横入りしてきた、いわば異分子なんですよ。つまり何もしてなくてもアタシがいるという事実だけで違和感があるのは当たり前なんです。つかもしアタシも視聴者の立場なら「なんだコイツは」と思ったのは確実ですから。

んで、もし自分が視聴者の立場なら、と考えるなら、この異分子が悪目立ちし出したら「あ、もうこのチャンネルは終わりだな」と見限ると思う。
そもそも何でそのチャンネルを見始めたかというと、内容云々よりも番組のトーンだったり空気感が好きだったからで、いくら事情があれどトーンや空気感が変われば見なくなるなんて、これまた当たり前すぎるくらい当たり前の話なんですよ。
だから悪目立ちしちゃいけない。つか<悪>であろうがなかろうが目立つこと自体がよろしくない。とりあえずは空気のように「なんか、いる」くらいでちょうどいいんですよ。

それって自分を抑えてってこと?と思われるかもしれないし、もっと「らしさ」を出した方がいいんじゃないかと思われることもあるかもしれない。
しかしです。どれだけ<場>の空気に合わせようとしたところでアタシはアタシなんですよ。前任者の方とはまるで別個体です。変な話、アタシが激烈に器用で、まるでコピーと思わせられるほど前任者に似せても、それでも同一と見做すことは難しい。
極限まで寄せようとして、でも寄せられない、それこそが<個性>だと思う。つまり個性っての<発揮>するものじゃなくて「滲み出てくるもの」だと。

どれだけ場に合わせようが自然とアタシの個性は滲み出てきます。
となったらです。別段、他人さんのチャンネルにおいて、もっと自分らしく、とか、個性を発揮して、とかまったく思わないのですよ。つかそれが本当に個性なのか?と言うとそれも疑問で、下手したら「自分が勝手に個性と思い込んでるだけで、実はどこかの誰かのイミテーション」かもしれない。少なくとも「滲み出る」個性よりはニセモノ感が強い、と。

さて、何度も書いてきましたように、こうした「もっと自分らしく」をテーマにしたフィクションは殊の外多い。つか1990年代以降になって急激に増えた気がする。
いまだに意味がよくわからない「自分探し」とかね。なんだよ自分探しって。探さなきゃわかんないようなもんは自分でもなんでもねーよ。
自分のことは自分自身が一番わかっていない、なんて当たり前じゃないですか。だってめちゃくちゃ意識しないと自分のことなんて客観視しないし、じゃあ客観視出来てたら何か良いことがあるのかっていうと、客観視出来てる<だけ>では別にない。

でね、この手のフィクションって「社会に合わせて生きてきて、いつの間にか自分自身が消失したのではないか。もう一度本当の自分を取り戻そう」なんてのがテーマになってたりするのですが、いやいや、これは非常に受け取り手を馬鹿にした話です。
仮にですよ、消失した自分なんてもんがあったとして、もしそれが社会に合わせたことで消失したとするならですよ。ほんで消失した自分が見つかっても社会に迎合したら消失するんでしょ?だったらもう世捨て人になるしかないじゃないですか。

つかね、世捨て人になる気もない、社会に迎合しないと生きていけない人間が「自分を取り戻し」て、んで「自分らしく生きよう」とかする、もうこれって「ただのワガママ」なんですよ。
「社会」というから広すぎてイメージしづらいけど、これが「会社」ならどうでしょう。もし己が「自分らしくやる」のを認めて欲しければ他の社員全員に自分らしくを認めないと不公平になる。で、そんなの会社として成立するわけがない。
それともナニか?自分ひとり<だけ>が「自分らしく」やる権利を認めろってのか?

ま、現実社会ではこんなことは通用するわけがないって話なのですが、なんでこんなフィクションが作られるのか、それが一番わからない。
いやね、わかるのはわかるんですよ。クリエイターっていうか創作者ってのはどうしても世間から白い目で見られがちなので、どうしても「自分とは」みたいなことを考えがちになる。んで「生きづらさ」みたいなのも感じやすい。
つまりこういうのって、世間がどうかなんか関係ない。はっきり言えはただのマスターベーションなんですよ。

いやさぁ、もし「個性的な」マスターベーションなら見世物になるかもしれないけど、こんなありがちもありがちなマスターベーションを「作品として」発表したがる神経は本当にわからんわ。
つかさ、この手の作品を見たがる人に心から言いたい。何か一瞬、そうか、自分だけじゃないんだ、みたいな安らぎを得られるかもしれないけど、それは勘違いだから。つか「自分らしく」なんてただの悪魔のささやきだから。そんなもん求めだしたら終わりだよ。もちろん世捨て人になる覚悟があるならその限りじゃないけど。

話を戻しますが「自分らしさ」なんてもんは「滲み出てくる」ものであって「発揮」するものではない。ましてや探したり取り戻したりするもんでもない。
もし何にも滲み出てこないのだとするなら、それはその人が空っぽだってことですよ。たぶんいくら探したところで見つからないし、取り戻すも何もはじめから持ってなかったんでしょうし。もし何か見つかった気になったとしても、それは誰かのイミテーションです。
つかさ、もし空っぽの人間だってのに気づけたなら、そこからやるのは「自分探し」ではなく「自分作り」でしょうが。

つかさ、別に「自分らしさ」なんてなくてもいいじゃん。どれだけ世間に迎合してても、どれだけ「ありきたり」でも、ちゃんと生活していけてたら立派な生き方じゃん。もうそれだけで十分胸を張れることだと思うよ。むしろアタシからしたらそれが理想だから。



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