だいぶ前の話ですけど、2018年に「理想のオペレーションシステム」なんてエントリを書いたことがありまして。
これは今でも同じことを思う。つかこれはOSに限らないと思うんだけど、補足の意味を込めてちょっとだけOSの話をば。
正直ね、OSなんて、というかこれは正確にはOSそのものではなく「OSに付随されたGUI」の話なんだけど「使いやすい」とか「わかりやすい」とか「直感的」とかって言われてるうちは「まだまだ」だと思ってるんです。
もしも、誰もが一切戸惑うことなく、完全に直感的に操作出来るGUIであれば、もはや「今自分はGUIを操作してる」という意識すらなくなるはずなんですよ。
そう考えるならOSのGUIはまだまだぜんぜん、進化の余地がある。残念ながらWindowsなど言うに及ばずmacOSでさえ道半ばもいいところであり、もっとも直感的に近いところにいるiPhoneOSでもOSの存在感を消し切れていない。
OSは存在感があっちゃダメなんです。どこまで行っても、仮にファイラーなどのGUIを使うにしても、常に「当たり前のことを当たり前に出来る」、そんな存在にならなアカンのよおーん。
実はね、これ本当に、何にでも言えるな、と思ってて、映画なんかもそうなんですよ。
黒澤明の「野良犬」は黒澤自身が「技巧に走りすぎた」と発言してることからもわかるように、他の黒澤作品と比べると「これ見よがし」なカットが多い作品ではあります。
実は黒澤明の作品ってあんまり「これ見よがし」なシーンはなくて、それこそ「蜘蛛巣城」の大量の矢が飛んでくるシークエンスを超望遠レンズで撮ったとかそういうことは言われるんだけど、意外にも平々凡々としたカメラワークが多い。つか「あざとさがない」というか「もっとも状況を的確に伝えることが出来る=ある意味平易な撮り方」みたいなカットのが圧倒的に多い。
これもね、結局は「カメラに存在感があっちゃいけない」というか「カメラアングルが必要以上の意味を持っちゃいけない」ってことだと思うんですよ。
もちろん必要であればしょうがない。でも必要以上にやると「監督の意思」が垣間見えてしまって没入感が削がれる。つか監督が「このアングル、カッコいいから入れよう」とかしたら、ま、いや、一旦フィクションの世界から現実に引き戻されるような感覚が生まれるんです。
でもね、監督が褒められるのってそういう「監督の意思」が見え隠れしたところなんですよ。でもそれが見えない監督は、能力に比して評価が低くなる傾向にあります。
ウチでよく出てくる名前で言えば、瀬川昌治や前田陽一なんかがそう。あと渋谷実や千葉泰樹なんかもその範疇にある。
彼らは「職人監督」なんてわけのわからない評価のされ方で、では巨匠扱いの溝口健二や成瀬巳喜男あたりとどこがどう違うのか、というか評価の<差>は能力の<差>なのかって話です。
実際、瀬川昌治や前田陽一の映画を見ても監督の存在感皆無で、つか誰が監督なんか考えもしない。それはアクというか「これがオレの作品だ」というような「主張」がないからです。だから巨匠扱いされない。
彼らの作品を観ると「監督なんか誰だっていいじゃん。観客が楽しんでくれたらそれでいいじゃん」みたいに感じる。だからこそ「職人監督」なんて言われるんだろうけどさ。だいたい「職人」ってなんだよ。存外に「アーティストではない」と言ってるのか。なんて失礼な話なんだ。ある意味職人にも失礼な話だわ。
あとね、これ、アタシもめちゃくちゃ気をつけてるのですよ。って何がなんだって話だけど、ここで書いてる駄文だってそうなんですよ。
正直、文章上手いですね、なんて言われたら「はぁ、まだそのレベルか」と思ってしまう。つか少なくとも書き慣れてはいるんだからめちゃくちゃ下手ではないと思うけど、上手い下手で仕分けされてるうちは、やっぱ「まだまだ」なんです。
アタシはね、とにかくこうした駄文を書くにあたって「極力平易な言い回しで書く」ってのは決めている。だから専門用語だったり難読漢字っつーか意味が伝わりづらいワードは極力使わないようにしています。
難しめのワードを使うと「頭が良さそう」に思われるのですよ。んで平易な言葉で書くと「誰でも書けそう」と思われる。
でもアタシは逆だと思っていて、文章を読んでて「ん?」と思われちゃおしまいだと。だから誰にでも理解出来るように書きたい。つか文章力なんてホントどうでもいい。こっちが伝えたいのは<内容>っつーか<中身>なんだから。
つまり上手いとか下手とか意識させることなく、気がついたら終わりまで読んでしまっていた、それが理想なんですよ。となったら下手と思われるのはもちろん、上手いと思われるのも頭良さそうと思われるのもマイナスでしかないわけで。
つかさぁ、ケレン味ってもんが勘違いされてるのが原因なんだよな。それって、ま、いいか。
