「果てスカ」の世紀の大コケっぷりっつーか興行成績はともかく、とにかく作品としての評判が芳しくないってのが問題で。
わりと言われているのが「それまでの秀作でコンビを組んでいた優秀な脚本家を排除して監督が自分で脚本を書いたことが問題」なんですが、たしかにこの脚本家は「国宝」での脚本も担当しており、だから余計にそういうことを言われるんだと思う。
しかしです。アタシのそもそもの考えとして、エントリタイトルの「原案」「原作」「脚本」そして「監督」をひとりがやるのは「やっちゃいけないこと」だと思ってるのですよ。
いやね、もしこれが予算の少ない単館上映作品なら構わない。つかそこまで「イチからジュウまでひとりでやる」映画ってもはやプライベート映画なんですよ。だから規模としてのマックスが単館上映だと。
逆に言えば全国の劇場で上映される作品でプライベート映画をやるのかって話でね、いや実際、監督がひとりで全部やった映画でも傑作も佳作もあるんだけど、数はものすごく少ない。つか黒澤明でさえ脚本は大半が共作だし、ひとりでやった作品は評判が芳しくなかったりするくらいです。
これは何でもそうなんだけど、ひとりで全部やるって、大変とかそういうことではなく、とにかくマスターベーション感を抜くのが難しいんですよ。あ、下ネタじゃないよ。
つまりはどうしても客観性が欠如しやすい。植草圭之助に「考え方に客観性がない」とまで言い放った黒澤明でさえ「全部ひとり」の作品は客観性が薄い。これはもう、人間の限界の問題だと思う。
つかね、アタシもYouTubeをひとりでやってるからよくわかるけど、自由すぎるってのは「方向を見失いやすい」んですよ。
そうなったらですよ。あくまで映画の話ですが、監督は仮に原作は手掛けるにしても脚本にかんしては別の脚本家を立てた方が安全なんです。
つまりメインの脚本家がいる状態で、そこに監督もアイデア出しのような感じで参加する。実際、先ほど書いたように黒澤明もほぼそうしてたし、市川崑や小津安二郎もそういう<やり方>でしたから。
「シン・仮面ライダー」が「シン」シリーズの中で凡作になったのって結局「監督/脚本 庵野秀明」だったからです。いや庵野秀明が悪いんじゃなくて、良くも悪くも樋口真嗣と共同でやってた良さが、つまり分業にすることでマスターベーション感を消してたのが<ひとりで>やることで消せなくなったと。つか庵野秀明自ら監督をやるんだったら脚本家は別に立てたら良かったのに。
「シン・仮面ライダー」を例に挙げたのは、あれも典型的な「方向を見失った」作品だったからです。
一度方向を見失なうと、取り戻すのはほとんど不可能と言ってもいい。つか「自分が脚本も書いた」となると脚本家に遠慮することなく方向性を180度変えることが出来てしまうので、もう何でもありになる。
何でもあり、はフレキシブルではない。フレキシブルってのはハンドルの<遊び>みたいなもので、限られた範囲での自由です。
ましてや映画なんてのは「その道のプロ」が集まって作るもので、みんなプライドを持ってやっている。同時に想定外もある程度は計算してやるものだと思う。つまり<遊び>というか<余白>もちゃんと残してると。
でもね、これはもう、想定外とかそういうレベルではない。ちゃぶ台ひっくり返しレベルだ、ということがあれば、そりゃあ最終的には<やる>ことはやるんだけど、気分的にはノッてない。するとそれが<絵>に現れてくるんです。
こないだも書いたように、アタシがね、一般的にはあまり評判の高くない「仮面ライダー」のゲルショッカー編が好きなのは、映像にスタッフのノリが反映されてるんですよ。もうみんなノリノリで作ってたんだろうなってのがよくわかる。そんな気分が見てるこちらまで楽しくさせてくれるのです。
つまり監督の「良かれ」と思う180度方向転換は作品にはマイナスにしかならない。やはり人間ブレーキがないとどうしようもない。仮にそれが<遠慮>からのブレーキだったとしても。
いやだから、そんなブレーキなんかいらない。とにかく作りたいものを作るんだ!ってなら勝手にすりゃいい。でもそれはどこまで言ってもプライベート映画ですよ。莫大な予算をかけて全国ロードショーで上映する映画でやることではない。「他人さんからカネを預かって、そのカネで商売をする」というのはそういうことなんです。
だからこそ、「果てスカ」の監督が「これはプライベート映画だ」みたいに公言してるのは本当に呆れた。アホかと。つかこんなフザけたこと言うヤツにこそ怒れよ日テレも。ネット民のせいにしてばっかりじゃなくさ。
つかこないだも書いたけど、さすがに創作者への評価が過大すぎるんですよ。だからみんなそこを目指すし、結果、こういう作品が、いやもういいけど。
