うん、もう何度もコスったネタではあるんだけど、それでもアタシはあらためて言いたい。
やっぱ中島みゆきはすごいわ、と。
いやすでに「ファイト!」という歌にかんしてはココでたっぷり書いてるんだけど、今回ちょっとね、別の視点でやりたいなと。つかこの歌、いやこの歌詞、いろいろと深すぎるんですよ。もう無限に掘れる。所詮歌詞なんだからたいして長くないんだけど、それなのにこれだけ掘れるって、いやはやとんでもないよ。
今回はとくにサビについて書きたいのですが、これね、まるで今流行りの冷笑系を予言してたようにも聴こえる。でもこれはさすがに違います。いくら中島みゆきでもそれはしてない。
そうじゃなくて、すでにこの当時から冷笑系がいたという何よりの証拠で、アタシの記憶でも昭和の時代からすでに「相手の気持ちなど一切考慮せずにせせら笑いたがる」人間はいた。というかウチの父親がまさにそうだった。つか両親が離婚したのはずいぶん昔だし、今は詳しくは知らないけど相変わらずっつーか三つ子の魂百までじゃないけど、年老いてもなお冷笑系のようです。
つまりね、そんな人間はいつの時代にもいるし、たぶん冷笑こそが自分のプライドを保つ唯一の手段なんだろうからいくつになっても変わらない。
たしかに昨今「冷笑系」という言葉が浮上したけど、これはたまたまなだけで同種の人間は「ファイト!」の歌詞が作られた頃からいた、ということです。
とは言え、ちゃんと<そこ>に目をつけたこと自体はやはりすごい。つまり普遍とは何かがよくわかってるってことなわけで。
しかもです。このサビでアタシが心底すごいなと思ったのがエントリタイトルの箇所、つまり「戦わない奴らが笑うだろ」ってところなんですよ。
譜割りの問題もあるけど、下手くそな人だったらここで「戦ってない奴らが」にするはずなんです。でもそうはしてない。何故なら「戦わない奴」と「戦えない奴」を混同しちゃマズいってのがよくわかってるからなんですよ。
世の中には戦いたくても戦えない人もいる。病気だったり障害だったり、はたまた戦えないほどの家庭環境だったり様々ですが、そんな人に向かって軽く「戦え」なんて言っちゃいけない。この辺の切り分けをね、「戦<わ>ない」と「戦<え>ない」のたった一文字で峻別してる。
これがどれほどすごいことか。たとえばココに黒澤明の「弱者への厳しさと配慮のなさ」みたいなことを書いたのですが、あの天才と謳われた黒澤明でも弱者を一括りにしてしまってるところがあった。
でも中島みゆきはそんなことはしない。たった一文字まで目配せすることですべてを表現しているのです。
もちろん黒澤明が言うように、弱者は弱者として満足しちゃいけないってのはその通りなんですよ。しかしその言葉を投げかけていい時とダメな時がある。つまり絶対に切り捨てちゃいけないタイミングってもんがあるんです。
というかね、「ファイト!」の歌詞をよく読むと「戦<え>なかったことへの自責の念」を綴ってるんです。つまりこんな戦えなかった過去があった。でもこれじゃいけない。立ち上がる。ボロボロになっても、たとえ海の藻屑と消えようとも、戦いの出場通知を抱きしめて、戦おうとする、そんな歌詞なんです。
だからね、これ、取りようによっては右翼的に思われるかもしれない。しかしそうではないことは「駅の階段で突き飛ばされた人を見殺しにした」「上京しようとしたが村の人間に脅されて諦めた」という<凡例>を見るだけでもわかる。
つまり<戦い>というのは「物理」ではない。メンタルの話です。メンタルの話だからこそ慎重にやんなきゃいけない。たった一文字にもこだわる。「アナタ、今、戦っちゃいけないタイミングだよ!」という人まで巻き込まない配慮が見られる。
しかしさぁ、中島みゆきが「ファイト!」を発表したのってまだ31歳の時なんですよね。いや作ったのはもっと前かもしれないけど、いったいこの人人生何周してきてんだ?と思ってしまう。ま、そんなこと言えば「時代」とか23歳の時だよ。マジでどうなってんのこりゃ。
つかさ、この人が怖いのはけして「早熟の天才」じゃないんですよ。普通早熟の天才はわりと早く枯れるもんだけど、いまだに枯れてないもん。こんな長期間天才ぶりを発揮するアーティストとか他にいる?
若い頃はどうしても「自分は天才じゃないか」と思ってしまいがちで、その手の勘違いはアタシもしたことがあるけど、中島みゆきと比べて、とか言われたら一気に現実に引き戻される。そんな存在ですよ。
