何度も書いてますが、アタシがYouTubeというものを<ちゃんと>見始めたのは2019年からです。でもって逆の言い方をすれば、2018年までは少なくとも<ちゃんと>はYouTubeを見てなかったと。
何で見てなかったか、その理由はココに書いた通り「ユーチューバーなる人たちを見下していた」からですが、実はもうひとつ、決定的な違和感があった。
それがエントリタイトル通り、とにかくユーチューバーの動画って延々、ずーっと、ユーチューバー自身のアップなものが非常に多かったのです。
これは現今でも、若干数は減ったかもしれないけどデファクトスタンダードであると言ってもいい。つか「ユーチューバーの動画のワンカット」と言われてパッと思いつくのはユーチューバーのバストショットのはずです。
いやね、これがせいぜい長くて30秒ほどだったらまだ理解出来ないこともないんですよ。でも実際は30分、下手したら1時間以上ずっと<ユーチューバー自身の顔>を映してる。
だからアタシがユーチューバーにたいして最初にもった印象は「コイツらどれだけナルシストなんだ」と。延々自分の顔を映し続けて、あまつさえサムネイルでも己の顔を大々的に使う。これはどういうことだと。
これはそれまでの、いわゆるブログ文化とはまったく違う。つか自分の顔を大々的に使ってるブロガーとかひとりも見たことがなかったし。
んで、やや先行する形で流行りだしたのがInstagramで、これもインスタグラマーは己の姿を大々的にアピール、するつもりかはわからんけど、とにかく「素材は自分」だったわけで。
こういうことにたいして「自己顕示欲」とか「自分大好きアピール」とか言う陰キャは当時からいた。でも、それこそ吾妻ひでおも言う通り「自分を弄るのは笑いの基本」なわけで、自分で自分をオモチャにするか、自分で自分を<美>の素材にするかの違いはあれど「素材は自分」なことには変わりない。
いやそんなことを言えば「自分の姿ではなく自分の生活をオモチャにする」という意味においてはブロガーも同じなのかもしれません。
話が逸れるから簡単に書くけど、某巨大掲示板にいる人らって要するに「自分を素材にする」のが嫌なだけなんですよ。アタシはこれを自己顕示欲ならぬ「自己嫌悪欲」だと言ってるんだけどさ。
とまあ、ここまでならインスタグラマーもブロガーもユーチューバーも<同類>みたいに扱ってるけど、当時の記憶をまさぐってみるに、アタシはまだインスタグラマーとブロガーは理解出来た。さっきの吾妻ひでお云々もあるし。
でもどうしてもユーチューバーによる「延々バストショット」は理解出来なかった。だってさ、ミフネもユージローもキムタクも、原節子も山本富士子も松坂慶子も、そんな映像はひとつもない。錚々たる美男美女でさえやってないことを、よくもまあやるもんだ、と。もっと言えば己の顔で画面が<保つ>と思ってるのか、それはそれですごいことだわとね。
テレビでさえも、マイナー番組であったかはともかく延々ひとりの人間のバストショットの番組なんかない。あっても昔のストレートニュースくらいで、それもせいぜい長くて5分ですし、途中でニュース映像も挟まるので一緒には出来ない。
それこそ「鶴瓶上岡パペポTV」のような番組だってマルチアングルだし、ワンカメ、アングル固定、映し出されるのはたったひとりのバストショットなんて番組はなかったと思う。
それがユーチューバーの動画では違う。ということにあくまでアタシ個人はですが、もう異様なものを感じた。つかユーチューバーにたいして怖いとか得体の知れない連中だという印象が強くなった要因ではないかと。
しかし、今になって思えば、これはアタシが「映像とはこういうものである」というバイアスが強い、いわば旧世代の人間だっただけなんですよ。
もしかしたら「延々バストショット」はアンチテーゼかもしれない。いや違うだろうな。つかたぶん違うとは思うんだけど、少なくともユーチューバーたちは「何でダメなの?今までなかった?だから?」って感じだったんだろうし。
己の顔で映像が保つと思ってんのかって問題も余計なお世話というか、そもそも延々バストショットユーチューバーは「画面をずっと注視しておいてくれ」なんて思って動画を作ってないんですよ。つまり<視線>はたいして求めていない。そこが決定的にアタシが誤解していたところです。
要するにです。延々バストショットユーチューバーの動画(生配信であっても同じ)ってのは「映像付きラジオ」なんですよ。だから彼らにとって映像なんてものは刺身のツマ以下なんじゃないかと。
そういうのがわかってから延々バストショットユーチューバーの動画を見たら、別に「どんだけ自分の顔好きやねん」とかは思わなくなった。んだけど、ごくごく一部に限ってやっぱり「どんだけ自分の顔好きやねん」って思っちゃう人はいるんだけどさ。もちろん誰とは言わないけど。
