いよいよ、東京オリンピックを開催するか否かの結論を出すタイミングが近づいてきました。(現注・2021年の話です)

そのせいもあって、さかんに「東京オリンピックを開催すべきだと思いますか?」というようなアンケート結果がニュースサイトに掲載されていますが、あんなもの、本当に意味があるのだろうか。
そういえば某女優が(これはさすがに名前を出すのは止めておく)がTwitter上で「私はね。五輪をやめてほしい。(中略)私達の人生は、2週間の運動会の後もずっと続いて行く。」とつぶやいて炎上してたけど、さすがにこの物言いは酷い。オリンピックを「運動会」と例えるのは悪辣すぎる。「では自分たちの演劇が学芸会と言われても平気なのか」という反論は正しい。

こういう問題の場合、実は賛成か反対かはさして問題ではないんですよ。ただどちらを選ぼうが、どこかに発信する場合には「それは自分と関係がない(もしくはある)ことだから反対(もしくは賛成)と考えているだけではないか?」と自問自答してから発信することを求められる。ましてや有名人の場合はリスクも大きいのだから、必要以上に注意するに越したことはない。

それにしても、いつも思うことがあります。
今回の東京オリンピックもそうだし、夫婦別姓なんかもそうなんだけど、世論が割れることになった時「血眼になって血相を変えて賛成している人」を一度も見たことがない。
もちろん、逆はいくらでもある。というかこれはイメージにすぎないけど、どんなことであれ反対派は「血眼になって血相を変えて」反対を唱えている。

何か物事が決められそうになった時、賛成派は言葉を発しない。いわゆるサイレントマジョリティというヤツです。サイレントマジョリティなんて言うと「声を挙げない反対派」みたいなイメージになってしまっているけど(某アイドルの歌のせいもあると思うけど)、声を挙げないのは「(消極的ではあっても)賛成だから」です。だまっていればその通りにコトが進むので、わざわざ声を挙げる必要はない、と考えるのは自然です。

ところが反対派はそうは考えない。サイレントマジョリティとは声を挙げたくても挙げられない不憫な人たちなのだ、と。
考えてみれば、こんな人を馬鹿にした話もないと思うんだけど、とにかく賛成派と反対派の声を拾えば聞こえてくるのは反対派の意見ばかり、というのは当然なんです。

しかし本当に、メチャクチャな、問題にもならないようなことであれば「物事が決められそうな」段階にすら至らないと思う。
もし「自分はマイノリティであるかもしれないが、それは止めて欲しい」と言うのなら、これはわかる。ところが「サイレントマジョリティを含めたら自分の考えはマジョリティなのだ」と捻じ曲げたがるのが一番の問題なんですよ。

ま、それはこれ以上言っても仕方がないけど、では反対派が「自分はマイノリティであるかもしれないが、それは止めて欲しい」という態度に出た時です。
それでも賛成と反対なら、もう、反対の方が絶対に有利なんです。それは「ひとりでも嫌な思いをする人がいれば」という人間の深層心理があれば、よほどのことがない限りゴリ押しは出来ない。

先程も書いたように、賛成派は血眼になってもなければ血相も変えていない。限りなく「消極的」賛成派です。
一方反対派は血眼にもなれば血相も変える。いわば「積極的」反対派といえる。
こうなれば、仮に数で賛成派が圧倒していても、どうしても反対派が強くなるのは、もう、どうしようもないのかもしれない。

しかし、本当にそれでいいんだろうかね。
誰ひとり嫌な思いをしない、なんてことが世の中にあるとは思えない。テレビなんかのコンプライアンスなどもそうだけど、そんなことを言い出したら何も決められない、何も作れなくなると思うんだけど。



もちろん世の中には反体制的な人はいっぱいいますし、中には声を挙げないタイプの反体制的な人もいることでしょう。
しかし「声を挙げない=反体制的」という決めつけは本当に怖い。つか声を挙げてない時点で体制的だろうが反体制的だろうがどっちにしろ「うっすら」でしかないはずなので、数に勘定しちゃいけないんだけどね。


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