よく「声を挙げなければ世の中は変わらない」と言います。しかし、どうも、この言葉に胡散臭さを感じて仕方がないというか。
いやこれは、特定の事象についての話ではない。
しかし車椅子騒動(現注・ココのトラブルの項参照)や、マリエの話(現注・出川哲朗との件)、そしてこれは少し前というか、数年前から今も続くMeTooもだけど、こういうことが昨今とくに増えている気がする。
ま、マリエの話は若干違うかもしれないけど、それでも、少なくとも「自分は正義である」という発想からの行為でしょう。仮に暴露本が計画されていたとしても、自分の中での正義が成立していなければ、ああいうことはしない。
自分が正義、言い方を変えれば対象となる人物や団体は、存外に<悪>だと言っているのと同じなんだけど、本人たち的には「自分が旗手となった世直し」の気分があるのではないかと思ってしまうんです。
自分が旗手、つまりは旗振り役の気分ということですが、自分が旗を振れば、大多数の人が無条件に後追いしてくれる、そうなるのが当然だ。そうした、ある種の「傲慢さ」が透けて見えるんですよ。
しかし実際はそうはならなかった、ということはいくらでもある。
旗振り役の後ろには誰も、誰もは言い過ぎだけど、ほとんど人が並ばなかった。
こうなると旗振り役は悲惨です。賛同されないどころか強烈なバッシングに合う。
もしここで「そうか、この考えは世間一般にとっての正義ではなかったのか」と気づけば、また違った展開があると思うんだけど、何故かそういうケースは少ない。というかほぼ皆無です。
最終的にはバッシングさえされなくなり、物笑いの種になる。ああ、そういえばそんな人いたなぁ、と。あの人いったい何が言いたかったんだろうな、と。
こうしたタイプの人は必ず、冒頭に書いた「声を挙げなければ世の中は変わらない」といったニュアンスのことを言い出す。
はっきりいえば、これを「本人が」言い出したらおしまいなんです。
世の中にはどれだけ正しいことであろうが、立場によって口にしてはいけない言葉があるんです。それこそ芸能人であろうがスポーツ選手であろうが一緒ですが、何かのプロと自認する人が、どれだけ罵声を浴びても「じゃあ、お前がやってみろ」だけは絶対に言ってはいけない。反論は構わないし、周りからそういう声が挙がるのはいいけど「本人が」言っては、もうその人はプロではない、といっても過言ではない。
そもそもの話ですが、たったひとりが声を挙げて、それで世の中が変わると思っているのなら、こんな目出度い話はない。
もしこれが「変わらないかもしれない、それでも、0.0001%の可能性にかけて声を挙げる」とかであれば、それは立派だと思う。
こういう考えで声を挙げていれば、おそらくバッシングは生まれない。生まれないは言い過ぎかもしれないけど、それなりの賛否両論になるような気がする。
具体的には書かないけど、以前大阪の某団体が差別にかんして目覚ましい成果を挙げたことがありました。彼らの「活躍」で、その手の差別関連の書籍は一斉に書店から姿を消した。
でもそれは一時的なものだった。各出版社が某団体にたいして反論と対立の姿勢を鮮明にしたからです。
某団体は討論のような場にはまったく現れなかったのですが、これにかんして「討論して負けてしまったら終わってしまうと考えている」と出版関係者から見られており、差別と思われる書籍にも、以降、何のリアクションも起こしていない。(現注・この時点では「具体的に」書かなかったけど、早い話がココのことです)
「たったひとりの意見で」(某団体も当初家族3人だけだった)世の中が変わるなんて、絶対にあり得ない。いくら旗を振ろうが後続がいないことには何も変わらないし、仮に変わったとしても某団体の話のように結局は一時的なものにしかならず、あっという間に元に戻ってしまう。
結局は「みんなが薄々、これはおかしい、と思っていること」レベルの話しか無理だし、そんなものはとっくの昔に誰かが問題提起している。
あ、世間的にはそうなのね。それはしょうがない。でも自分はひとりでも戦うよ。
そんな覚悟もないのに「声を挙げなければ世の中は変わらない」なんて、口にしちゃ、絶対にいけないんだけどね。

