えと、これからやりたいのはエントリタイトルの通りなのですが、こうしたホワットイフこそ、ちゃんと歴史的経緯の精査が出来てないと「やれない」と思うわけでして。

 というか今回の主題は「8時だョ!全員集合」でもザ・ドリフターズでもない。え?と思われるかもしれないけど、そこを主題にしてしまうと結局「8時だョ!全員集合」におけるドリフターズが面白かったから、という身も蓋もない話というか、それでこのエントリは終わってしまいます。
 だから「面白かった」云々は当たり前の大前提条件とする。つか「面白い番組=ハネる=高視聴率番組&長寿番組になる」とか、そう単純な話ではない。非常にクオリティが高く、また大衆性も保持していながら視聴率が取れずに短命に終わった番組なんて無数にある。つかそこに重きを置きすぎると本質が見えなくなると思うのです。
 そしてもうひとつ、そりゃあ、もう間違いなく<運>の要素はありますよ。でもこれまた<運>で片付けちゃそれで話が終わる。だからそれもオミットします。
 とにかくアタシがやりたいのは、当時のテレビ界と音楽界でのドリフターズの立ち位置の話です。ってそれじゃドリフターズが主題っぽいけど、ドリフターズ目線で語ろうと思えば逆にドリフターズは出てこれない。ま、ゲームの一人称視点みたいなものというか、レースゲームでも自分が運転してるはずの自車は画面に映ることはほとんどない、みたいな話だとご理解ください。

 まず最初に触れておかなければならないのはコント55号、というか萩本欽一です。

 萩本欽一は優れたコント作家であり、脅威的な身体能力を備えた達者なコント演者であり、またその愛嬌でアイドル的人気を誇った、いわばコメディアンとしての資質をすべて兼ね備えたスーパーコメディアンだったのです。
 ドリフターズで言えばいかりや長介と加藤茶と仲本工事の要素をひとりで賄っていた。そんな萩本欽一が組んでいたのが<俗物的>な荒井注の要素と<鈍重>な高木ブーの要素を併せ持つ坂上二郎だったわけで、ドリフターズ目線というかいかりや長介目線で言えば「こんな気になる存在はいない」と言えるほどだったと思う。
 しかし「才能がひとりに集約されている」ことが良いことかはわからない。コントのバリエーションが作りづらくなるし、集約されていればいるどキャラ被りが発生しやすくなる。そこが萩本欽一の弱点でもあった、という話は後にとっておくとして、少なくとも「どっちが上か」というような話にはなりません。

 萩本欽一いかりや長介ともにお互いライバル心は薄く、友人関係だった。とくに萩本欽一と加藤茶は麻雀仲間で頻繁に<卓>を囲んでいたらしい。
 というか間違いなく両者の<目標>であり、追い抜くべき相手はクレージーキャッツでした。
 ドリフターズとコント55号が台頭してきた1967年頃、メディアにおける<笑い>のトップランナーは誰がなんと言おうがクレージーキャッツであり、一緒にクレージーキャッツを追い落とす<仲間>に近い感覚だったのかもしれません。
 ドリフターズとクレージーキャッツの関係についてはココでしっかり書いたので今回は割愛して、ではコント55号というか萩本欽一がどのようにクレージーキャッツを見ていたかです。

今考えると(筆者注・クレージーキャッツは)テレビの笑いの一番最初じゃない。一番新しい笑いだった。オレ、ビックリしたもん。とにかく見たことない笑いだったから、「ああ、こーゆーのもあるんだ」と思って、 (筆者注・「シャボン玉ホリデー」は)よく見たよネ。みんなも同じで、浅草と違う笑いだったんで見たんじゃない。影響? 『テレビは笑いが違うゾ』って教わったんだから、影響は受けてるんだろうネ、うん。よくボクがテレビを新しくしたって言われるけど、実はその前にクレージーがやってたんだヨ。とにかく植木さんはとんでもない人って感じがしたネ、新鮮でネ。一番新しい笑いをやってるクレージーに憧れてた。(「シャボン玉ホリデー スターダストを、もう一度」)


 世辞、とまで言い切っちゃうとアレだけど、それでもさすがに「憧れてた」は大仰な表現だとは思う。
 にしても、萩本欽一は「この人らをやっつけないとテレビで笑いは出来ないのか。こりゃあ大変だぞ」くらいはわかっていたと思う。
 萩本欽一と坂上二郎にはひとつアドバンテージがあった。それは「浅草のストリップ小屋出身」という、つまりジャズ喫茶を根城にしてきたコミックバンドのクレージーキャッツとは「出自がまったく違う」というところで、ほっといても差別化は図れる。事実、コント55号は同じコントではあるもののクレージーキャッツの手遊び的コントとはまったく違う、人間対人間の決定的な心理的対決を主軸にしたコントで一気にクレージーキャッツを「古い<笑い>」に変化させたのです。
 一方、ドリフターズはクレージーキャッツと同じ音楽畑出身で、しかもグループ。どうやってもニ番煎じ感が出てしまう。そこに「ある意味コント55号的」な人間関係の可笑しさを注入することで差別化を図ったのですが、クレージーキャッツとは違うという認識になるまでそれなりに時間がかかってしまった。
 その点、コント55号は「コンビである」「プロダクションが小さい」など<身軽>であり、より先鋭的になれた。だけれども、先鋭だった代償も大きく、コンビとしての寿命はきわめて短かった。
 1971年頃にはコント55号の人気は凋落気味で、同じ頃に人気凋落が決定的になったクレージーキャッツと討ち死にする、という結果になってしまった。
 つまりクレージーキャッツとコント55号は「相討ち」になったと言ってもいい。というかあの萩本欽一が死ぬ気で立ち向かわなければならないほどクレージーキャッツは強大だったということです。

 同じプロダクションの先輩であり目標でもあったクレージーキャッツと、そのクレージーキャッツを倒すべくともに戦ったコント55号が倒れ、ドリフターズだけが生き残った。そして見渡すと目標もライバルも同志もいなくなり、ひとり旅が始まった。ここからのドリフターズは、少なくともマンザイブームの頃まで、文字通り独走状態に入るのです。

 この頃、唯一気を吐いていたのがグループサウンズのスパイダース出身で、名コメディアンだった堺駿二を父に持つ堺正章です。
 堺駿二の死に直面した堺正章は「コメディアンになる」と宣言し、音楽活動と並行してバラエティ番組を中心に活躍していくことになります。
 1970年代前半、コメディアンとして名前が上がるのはまずドリフターズで、次が堺正章だった。堺正章は「マチャアキの~」という冠がついた番組をいくつもこなしていたんです。

 個人的な記憶で言えば「コメディアン・マチャアキ」のイメージはさほど強くない。アタシはまだ幼く、ドリフターズを追いかけるのに必死でマチャアキの番組はさほど見てなかったように思う。

 記憶がはっきりしてくる1970年代後半からのマチャアキのイメージは「西遊記」の孫悟空、「紅白歌のベストテン」の司会あたりで、バラエティはと言うとたまにやる芸能人野球大会(の乱闘シーンの井上順とのタンゴダンス)のイメージしかありません。(かくし芸のイメージになったのは1980年代以降)
 ドリフターズはと言えば、志村けんという「新しい血」を入れて若返りに成功、以降も人気を保った。
 この間も伊東四朗小松政夫コンビの活躍はありましたが、依然人気トップはドリフターズであり続けたのです。

 今回のエントリはあくまで「8時だョ!全員集合」(以下、「全員集合」)がハネなかったら、というお題目なので、すでに「ハネきった後」になる1970年代後半の話はこれくらいにして、1970年代前半、いや「全員集合」の人気が決定的になった放送開始の翌年である1970年、それも「ハネる寸前」だった初頭に話を戻します。
 この際「コメディアン(=喜劇人)」か「ヴォードビリアン(=芸人)」かの区別はせずに、格とか抜きにリアルな人気だけで測れば「笑いの人」のランキングを付けるとこんな感じだったと思う。ちなみに()内は、ま、<勢い>くらいにお考えください。

1位 コント55号(→)
2位 渥美清(↑)
3位 クレージーキャッツ(↓)
4位 ドリフターズ(→)
5位 てんぷくトリオ(↓)


 前年に「男がつらいよ」がヒットの兆しを見せ(間違ってもこの時点では「大ヒット」ではない。ヒットシリーズのない松竹だからヒット扱いだっただけ)、人気を盛り返してきた渥美清が、前々年の「クレージーメキシコ大作戦」の惨敗以降ジリジリと人気を下げていたクレージーキャッツを追い抜いた頃だった。というかこの手のランキングに渥美清が名前を出す最後の方で、以降は「喜劇映画に出ている<役者>」のイメージが強くなり、いわば<笑い>の人である印象が残っていた最後の方です。

 他、人気上昇組で言えば、関西芸人ばかりになりますが、横山やすし・西川きよし、中田カウス・ボタン、笑福亭仁鶴、桂三枝、逆に人気下降組はトニー谷、藤田まこと、他、第二次漫才ブームの残党たち(牧伸二や三遊亭円楽(五代目)などを含む)もそうです。
 ドリフターズと枝分かれして出来たドンキーカルテットは「まったく人気がないわけではないが」という感じだったし、「てなもんや三度笠」が終了して以降、関西系の人、とくにコメディアン系の新しい人は全国区になりづらい状況だった。
 先ほど書いたようにコント55号は浅草出身ですが、痛かったのが「55号の<次>」を浅草から排出することが出来なかったことで、本当は55号の<前>になるはずだった晴乃チック・タックが思ったよりも早く人気が萎んだので「人気者の系譜」みたいなのが作れなかったのです。(浅草の<次>は10年後のツービートの登場を待たなければいけない)


 こうやってみれば、超新星的に人気者になったコント55号と、渡辺プロダクションをバックにつけるドリフターズ以外、ビックリするくらい「新しい人材」が枯渇しているのです。
 てんぷくトリオやトリオ・ザ・パンチではあきらかに<華>が欠けるし、他も、それこそ「加藤茶」「萩本欽一」と言ったレベルで華のある人は、いない。
 これはテクニックや「可笑しさ」の問題ではない。芸事全般に言えることですが、やはり<華>がないことには人々の目を惹かないのです。

 アタシは戦前文化マニアなんだけど(マニアと言うにはおこがましいけど)、戦前の<笑い>のトップは、誰がなんと言おうと喜劇王と謳われたエノケンこと榎本健一です。
 ではエノケンが圧倒的に<能力>が秀でていたのか、というとちょっと疑問符がつく。エノケンの<売り>は高い身体能力でしたが、動きの華麗さではパントマイム芸人だった永田キングに劣るし、大衆性は柳家金語楼に、企画の有能さは古川ロッパに、瞬発的な可笑しさはエンタツ・アチャコに、また音楽面では二村定一に、劣るとまでは言わないけど「やや落ちる」くらいは言ってもいいと思う。
 にもかかわらず、何故エノケンが喜劇王と言われたか、それは他の<笑い>の人に比べて圧倒的な絢爛たる<華>があったからです。とにかくスクリーンにエノケンが登場すると雰囲気が一変する。わけもなく楽しい気分になる。

 これは「エノケンの~」と冠が付かない(要するに主演でない)映画の方がよりわかる。例えば「楽園の合唱」、例えば「江戸ッ子健ちゃん」、例えば「待って居た男」など、エノケンが登場した瞬間にパッとスクリーンが華やぐ。これは戦前のどの喜劇役者にもないことです。(やや例外と言えるのは高勢実乗だけど、高勢実乗の場合<華やぐ>とはちょっと違う)

 戦前期のエノケンがどれだけ面白かったかは、わからない。時代が違いすぎるので非常に判断が難しい。でも、それではこの人らの中でもっとも売れるのは誰か、となると、問答無用でエノケンと答える。それくらい、少なくとも<華>にかんしてだけは図抜けているんです。

 エノケンには劣るとは言え出始めの頃の森繁久彌やフランキー堺も華やかさはあった。しかし「ちょっと次元が違う」「もしかしたらエノケン以上なのではないか」と言われた植木等が登場した。
 よく言われるように植木等は芸達者なタイプではない。歌は上手いけど、それだけっちゃそれだけですし、苦手なことも多い。しかしこんな「絢爛たる華」を持つ人はいない。これは現在においても変わりがありません。
 萩本欽一も加藤茶も、十分華のあるタイプだと言える。それでも植木等には敵わない。植木等が年齢もあってくたびれてきたことで萩本欽一が追い落としたけど、くたびれた植木等でさえ「相討ち」が限界だった。

 ま、仮に萩本欽一が追い落とさなくも、植木等のというかクレージーキャッツの人気が未来永劫続いたとは思わないし、おそらく人気がなくなったという感覚もないままフェードアウトして行ってたんだろうな、とは思う。
 また萩本欽一は萩本欽一で、あまりにも多才すぎて「全部ひとりでやるしかない立場」になるしかなかった。コント55号では限界があり、他の人と、となっても史実通り「半素人を転がす」みたいな感じでしか無理だったと思う。というかある程度格のあるコメディアンヴォードビリアンなら絶対に衝突してしまう。
 つまりです。アタシが言いたいのは、どのみちドリフターズは荒野に放り出されたことになったと思う。そこで「独り勝ち」になれたのはもちろんドリフターズが、そして「全員集合」が面白かったからですが、もし「全員集合」がハネなかったら1970年代前半の<笑い>は「トップ不在、2番手にマチャアキ、その他有象無象」って感じになってたんじゃないか。

 アタシはけして堺正章を過小評価しているわけではありません。しかし堺正章が活きるのは<ざっくり>したバラエティ番組のみで、作り込んだコントも、映画の主演もあまり向いてない。「街の灯」なんかは完全に堺正章をアテ込んで作られた映画だけど、名匠森崎東が監督した作品のわりには「この程度?」くらいなのが素直な感想です。
 つまり「歌手」「タレント」としてはともかくコメディアンとしは若干幅が狭い。となったらどうしても「マチャアキが天下をとった世界線」が浮かばないのです。
 あと「全員集合」が早々に消えていた場合、あきらかに「全員集合」のアンチテーゼとしてはじまった「オレたちひょうきん族」もまったく違った形になったような気がする。

 最後に、では「全員集合」がハネなかった場合、当のドリフターズ自身はどうなっていたかを考えたい。
 まず荒井注の脱退はなかったように思う。1970年代以降、ゆるやかに仕事が減少して行ったと仮定するなら「遊んで暮らしたい」わけではなく「(寝る間もないほど)忙しいのが嫌でたまらなかった」荒井注が辞めるわけがない。たしかにいかりや長介との仲云々もあるとは言え、荒井注の性格から言ってその程度でそんな面倒なことをやるとは思えない。
 となると当然、志村けんのメンバー入りもなかった。いや仮に正式メンバー入りの打診があっても、コントさえほとんどやらない(たまにジャズ喫茶で音楽コントをやる程度)なら断ったんじゃないか。そもそもほぼ演奏が出来ないに等しい志村けんの抜擢自体考えづらいのですが。

 さらにです。
 ココでも考察したように、おそらく「全員集合」があうがなかろうがレコードはそこそこ売れてはいた。となったら、そっち方面に行くしかなかったんじゃないか。
 いわば「コミカル版デューク・エイセス路線」とでも言うのか、あくまでコミックソング歌手メインの活動をするしかなかったように思う。民謡や明治演説歌のカバーだったり、オリジナルでも(コミカルな要素を含んでいたとしても)望郷ソングに近いものだったり、そういう路線になった気がする。
 そして少しずつ<笑い>の方向から逸れていって「ドリフターズっているだろ?あの懐かしいみたいな歌ばっかり歌ってる。あのグループ、昔は喜劇映画で主演したり、コントをやったりしたんだぜ」と言われるような存在になったんじゃないか。

 ここまであくまでホワットイフとして書いてきましたが、いやドリフターズのエントリなのだから「もしも」にした方が本当はいいわな。となったら、オチはこのひと言しかないでしょう。

 ダメだこりゃ



いや本当に「全員集合」がハネなかった世界があったとするなら、テレビの<笑い>はダメになってたと思う。つか1970年代前半の時点でまともなコントをやってる番組は激減しており、そうであればバラエティ番組というもの自体が消滅した可能性もあったんじゃないかとさえ思う。
そう考えると本当に「全員集合」ひいてはドリフターズの貢献は計り知れない。ま、そんなこと言えばエノケンにもクレージーキャッツにも言えるわけで、要するにドリフターズはそれだけ偉大ってことですよ。それがわかってないって一点だけで◯◯◯◯って人は「お前が一番わかってない」としか思えないわけで。




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