♪ ラクラクチョウチョウ ラクラクチョウチョウ
  今日も一羽の蝶が 今日も一羽の蝶々が
  虫取り網から籠の中

  ちょっとちょっとおまわりさん
  ちょっとちょっとおまわりさん
  ワタシが何をしたというのやら
  おかしなことを言うてもろたら困ります

  ラクラクチョウチョウ ラクラクチョウチョウ
  今日も一羽の蝶が 今日も一羽の蝶々が
  虫取り網から籠の中

  右や左の旦那様 かよわき蝶が蝶が一匹
  どうぞワタシを どうぞワタシを
  (ええい、そないジロジロ見らんかて)
  その先は自分でお考えねがいやす

  ラクラクチョウチョウ ラクラクチョウチョウ
  今日も一羽の蝶が 今日も一羽の蝶々が
  虫取り網から籠の中

  ラクチョウブギー ラクチョウブギー
  ラクラクチョウチョウ ブーギー!



 何だか無敵の人ばりに恐れを知らず正々堂々と歌詞を書いたっぽいですが、安心してください。こんな歌は存在しません。だから某ジ○スラ○クも手出ししようもないっつーか。
 もちろんホンモノをご存知の方からすれば「こんな下手クソな歌詞、あり得ねーよ!」とね、即座に理解してもらえると思うけど、その代わり「歌詞の意図」みたいなものもご理解していただけるはずです。
 当たり前だけどこれは「蝶にターゲットを絞った虫取りの歌」ではない。<蝶>だの<虫取り網>だのはただの比喩です。

 1945年8月、表向きは<終戦>という形で、現時点で日本が当事者となった最後の戦争が終わったのですが、では「戦争が終わったことで世の中の空気が一変したのか」というとそうじゃない。
 というか、いくら「これからは松川さん(←マッカーサーのこと)の時代だ」とか「民主主義とはかくなるものだ」とか、ラジオから「真相はかうだ(こうだ)」が流されても、人間そこまで急に変われない。
 1945年いっぱいまでは「戦争が終わっただけで、新しい潮流があったわけではない」というふうに見えるのです。
 映画なんか最たるもので、たしかに軍国主義的な映画は禁じられたけど、だからといって民主主義プロパガンダのような映画が急に作れるはずもなく、お題目のいらない、明るく希望的な映画や、いわゆる見世物映画しか作ることが出来なかったんです。

 戦後すぐの映画、と言えば「リンゴの唄」が挿入歌として使われた「そよかぜ」と、古川ロッパやエンタツ・アチャコなどが出演した焼跡が舞台の喜劇「東京五人男」が有名ですが、それよりも封切りこそ翌年(の正月)になるもののアタシは「グランド・ショウ1946年」を推したい。
 もちろん個人的にはこうした「たんなるレビュウ映画」が作られたことは喜ばしいのですが「レビュウ映画でも作るより他になかった」っていう時代背景への考慮は絶対必要です。

 戦後、と言われる新しい時代の<光>と<闇>は翌1946年になって浮き彫りになっていきます。
 焼跡だらけで何もないとはいえ、ひたすら自由な空気が横溢しだしたのは間違いなく<光>なのですが、深刻な食料不足、帰還者の受け入れ問題、ヤクザが仕切る不法な闇市の存在、街中に溢れかえる戦争孤児、倍々ゲームのような極度のインフレ、エトセトラエトセトラ。
 そしてもうひとつ、米軍兵相手に身体を売る若い女たち、通称パンパンも大きな社会問題になっていました。
 パンパンの語源は諸説あり、どれが本当かよくわからないのですが、パンパンになった者には戦争で身寄りがなくなった女性も多く、生きていくために、彼女たちは自分の身体を売るしかなかったのです。

 パンパンはのちに「夜の蝶」とも呼ばれますが、最初に書いた、アタシがテキトーにデッチ上げた歌詞は、ま、その風刺です。
 しかし<チョウ>はともかく<ラク>って何だ?と思われるかもしれませんが、ラクチョウとはつまりは有楽町のことでして、当時、東京は有楽町近辺を縄張りにしていた「ラクチョウのお時」なるパンパンがいたのです。
 だからあの嘘歌詞は「1947年頃の有楽町が舞台」ってことになる。
 1947年と言えば「東京ブギウギ」が発表された年でして、それでブギをイメージした、もっとはっきり言えば笠置シズ子をイメージした歌詞をデッチ上げた、というわけです。

 ただし、実際には少し時期がズレています。
 「東京ブギウギ」がはじめてお披露目されたのは1947年秋頃の舞台で、そして全国的に知れ渡ったのは12月公開の「春の饗宴」という映画でです。
 レコード発売はさらに遅く、翌1948年。もうこの頃には「ラクチョウのお時」はパンパンから足を洗っており、いくら「元パンパン」だったとはいえ、カタギに戻ったお時を揶揄するってのは、ちょっと、いやかなり失礼な話です。
 しかもアタシが想定した「作曲 服部良一、歌唱 笠置シズ子」というのもあり得ない。何故なら、今でいうシングルマザーとして乳飲み子を抱えながら劇場や撮影所を飛び回っていた笠置シズ子にたいし、熱狂的なシンパシーを送ったパンパンが多数いたと言われており、いわば<身内>を揶揄するなんて考えられない。
 だから「ラクチョウブギ」なんて歌は作られるはずもないのです。

 さて、もうちょっと詳細なラクチョウのお時の説明が必要ってのは至極もっともです。つか、そもそも一介のパンパンが、何故そこまで、後世に名前が残るほど有名になったかに疑問を感じる向きもあると思います。
 が、その前に前段として済ましておきたいことがある。
 当時NHK(まだテレビの本放送は始まっていないので当然ラジオ)で「街頭録音」という人気番組がありました。
 これはGHQからの命令ではじめられたとはいえ「隠し撮りで市井の人にインタビューする」という画期的な番組ですが、当時の技術の話を抜きに語れない。
 わかりやすい例を出すなら玉音放送です。
 この時点ですでにテープレコーダーによる録音は可能になっていましたが、あまりにも大掛かりで皇室にテープレコーダーを持ち込むのは困難でした。
 そこで一番手っ取り早い方法として「レコードに直接録音する」という手法が取られた。いわば日本最初の、かはわからないけど、ダブプレートの、もっとも有名かつ極めて初期の例、くらいは言えるんです。
 ただしレコード式録音機はきわめて音質が悪く、玉音放送の音質が悪いのは、つまりはそういうわけです。いや戦前録音盤でもテープレコーダーでレコーディングしたものは現代人が聴いても耐えられる音質ですから。ま、原盤が失われている場合が多いんだけどさ。

 当然、玉音放送から数カ月後に開始された「街頭録音」もレコード式録音機を用いているのですが、それでも隠し撮りとなると大変で、Wikipediaによると『レコード式録音機を搭載した自動車を近くに隠し、近隣から交流電源の電線を引いて電源を確保し、インタビュアーは録音車から伸びた長いマイク線を引きずって歩き回らねばならなかった。』とあります。
 しかし苦労の甲斐があり、戦中には考えられなかった本物の「民衆の声」を録音することに成功します。
 とくに大きな話題になったのが1947年4月8日収録、4月22日放送分で、パンパンの元締めへのインタビューに成功した。そしてこの放送に出演(というか、何しろ<隠し撮り>だったから本人にはラジオ出演への意識はなかったんだけど)したのが「ラクチョウのお時」だったのです。

 さて、ここでひとつの伝説というか都市伝説を紹介したい。
 たしかに「ラクチョウブギ」なんて歌は存在しないし、笠置シズ子も、パンパンを題材にした楽曲は歌っていません。
 実在した、パンパンを題材にしたもっとも有名な楽曲と言えば、これは「星の流れに」にとどめを刺す。

♪ 泣けェて なみィだもォ 涸ァれェ果ァてェたァ
 こォんなァ女にィ だァれェがしィた~


 歌詞の中には一言も「パンパン」とも「夜の蝶」とも入っていないのですが、あえて口紅を<ルージュ>と詠うなど、様々な示唆が入った実に深い歌詞です。つか歌詞にルージュって言葉が入った流行歌(流行ったって意味ではなく、今で言う歌謡曲)は「星の流れに」が初めてだったんじゃないか。
 アレンジがちゃんと戦後っぽくなっているのもいい。戦後なんだから当たり前みたいだけど、まだこの頃は戦前風のアレンジの楽曲もいっぱいあったからね。
 歌詞からメロディからアレンジに至るまで、あまりにも見事に時代の空気を掬い取ってあり、戦後すぐの流行歌としては「東京の花売娘」(余談だけど<花=女性、花を売る>と考えると、これもパンパンをテーマにした歌だと思う)と双璧だと思う。

 伝説とは「ラクチョウのお時が「街頭録音」の収録時に、それまであまりヒットしてなかった「星の流れに」をひとくさりし、それで人気に火がついた」というものです。
 しかしこれは常識的に考えてあり得ない。「星の流れに」のレコードリリースは1947年10月、ラクチョウのお時が「街頭録音」の収録したのは1947年4月です。つまり半年も前。吹き込みからレコードリリースまで期間が開くことはあり得るし、先行してラジオなんかで流されていて、それをラクチョウのお時が諳んじていた可能性も、もちろん皆無ではありません。
 しかしそれはそれであり得ないというか、ラジオでの反響が大きくて、というならラジオ放送から半年も空白を空けるわけがない。普通、ならば、と緊急リリースするはずです。

 ラクチョウのお時が出演した時の「街頭録音」は音源が現存しており、全編ではありませんが一部がNHKアーカイブスのウェブサイトにて公開されています。
 しかし公開されている音源にはラクチョウのお時が「星の流れに」を歌う箇所はない。著作権の関係でカットされた可能性もゼロではないけど、やはり、都市伝説と見做すのが妥当と思われるわけで。

 「星の流れに」の歌唱は菊池章子ですが、当初は淡谷のり子が予定されていたらしい。
 しかし、このパンパンを題材とした楽曲を、淡谷のり子は歌うのを拒んだ。淡谷のり子曰く「結局、パンパンに墜ちるのは自分の責任じゃないか。パンパンになどならなくても力強く生きている女性はいっぱいいる。そんなパンパンを肯定的に描いた歌詞の歌など、歌いたくない」と。
 淡谷のり子が言わんとすることはわかります。というか何も間違っていない。ラクチョウのお時も「街頭録音」が放送された直後にパンパンから足を洗ったと言われており、その後は事務の職についたらしい。
 つまり、パンパン以外にも真っ当な道はあったとラクチョウのお時自身が示しているわけで、淡谷のり子の気持ちは良くわかるのです。

 それにしても、仮にラクチョウのお時と「星の流れに」が無関係だったとしても、いくら淡谷のり子の発言が正論だったとしても、それでもラクチョウのお時を責める気にはなれないし、「星の流れに」はアタシの心を打つ。
 ハタチを過ぎたばかりだというのに身寄りもなく、たったひとり、日劇の地下で腹を空かしながら生き延びようとした少女がパンパンになることを誰が責められようか。たしかにカタギへの道は皆無ではなかったことは否定しないけど、あれだけ無法無秩序がまかり通った戦後すぐの世の中で、パンパンだけを倫理的に否定するのは、というか、今の倫理観から否定するのはやっぱおかしい。
 そういうことがね、「星の流れに」を聴くと、パァ~っと頭の中を駆け巡るのです。

 時が流れました。
 ラクチョウのお時がパンパンになる寸前に雨露をしのいだ日劇はとっくに取り壊され、その後に出来たマリオンさえもまったく変わってしまった。お時がパンパンを止めた10余年後に出来たそごう有楽町店もビックカメラになった。
 令和の今、仕事以外の理由で銀座、ではなく、有楽町に行く、となったら、まず駅前にある東京交通会館に行く、という意味でしょう。
 東京交通会館は、今では「アンテナショップの聖地」としての方が有名かもしれません。
 というかアンテナショップって全国の人に通じるんだろうか。かいつまんで言えば、地域のアピールのために各自治体が特産品を取り揃えた店舗を運営しているのです。北海道のアンテナショップなら北海道名産のものを買ったり食べたり出来るし、沖縄なら沖縄の、みたいな感じで。ま、良くも悪くも地域色豊かなところになってしまったって感じです。

 しかし不思議なことに、ラクチョウのお時が声をかけられるために「立っていた」とおぼしい有楽町のガード下は何故か往時に近い姿を留めている。これだけ有楽町はおろか東京の街が様変わりしたにもかかわらず、手つかずというか、まるで「ここは手をつけちゃダメだ」と言わんばかりに、そのままに近い。
 有楽町のガード下に行って、ふと、振り返ると、そこにラクチョウのお時がいるような気がする。そして東を眺むれば、ルミネ有楽町(マリオンの後に出来た商業施設)ではなく、日劇が当たり前のように存在しているように思える。

 日劇に入る。笠置シズ子がショウをやっている。「ラクチョウブギ」は歌わないけど、ステージ狭しと歌い踊っている。まるでパンパンの業をすべて背負ったが如く。
 身体から、何とも言えないバイタリティというかエネルギーが湧いてくる。すと座席を立ち、日劇をあとにして、再び有楽町のガード下に戻る。
 いる。ラクチョウのお時が、いる。声をかけよう。いくら?と。

 タイムスリップなんて夢物語だし、妄想も甚だしい、と自分でも、思う。
 それでも、もし、あの時代に行けたなら、アタシはラクチョウのお時を抱こうと思う。ああ、この身体ひとつでこの時代を生き抜いてきたんだ、肌と肌が触れ合うことで、全身でその感覚が知りたいのです。



前々から構想はあったんだけど、2020年の東京出張がてら有楽町に行った時に突然この偽歌詞を思いついて、感覚を活かすために慌ててその場で初稿を書いたんですよ。
この現地で書いたってのはツヨイ。だから何とも言えない生々しい感じになってるはずです。


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