「老いらく」シリーズの第二弾ですが、実はね、ゲームというのも<老い>を実感する良い題材だと思うわけで。

 さて、ざっくりゲームといっても、まァ今回書きたいのはエントリタイトル通りビデオゲーム、つまりコンピュータ制御でモニターに出力されたゲームの話なんですが、アタシは3種類に峻別出来ると思っています。

① 普通の、ひとり遊びを基本としたゲーム
② その場にいる友人などと興じるゲーム
③ 暇つぶしゲーム

 これから主に語りたいのは③なのですが、その前にどうしても①と②の説明が必要なので先にやっておきます。
 ①にかんしてはジャンルは一切問いません。アクションでもパズルでもRPGでもシューティングでもなんでもいい。
 さらには「インターネットを活用する何らかの仕組みが用意されているか」も問わない。ネット上で対戦出来たり、見知らぬ人とパーティーが組めたり、とにかく完全なひとり遊びではなくても①になります。
 ②にかんして言えば、もっともわかりやすいのが、いわゆる「マリオパーティ」などのパーティーゲームでしょう。
 とにかくその場で盛り上がるためのツールというか、「この友人がいる時はこのゲームをする」みたいになってる、とか、正月には家族で、それこそ「マリオパーティ」や「桃太郎電鉄」をやる、とかね。
 感覚としては昔の双六とかそういうのに近い。時代が時代だからたまたまビデオゲームという<やり方>なだけ、というか。


 たしかに①も②もビデオゲームをやっていることには変わりない。というか本来、いや大多数の人にとっては、ゲーム、と聞けば反射的に浮かぶのは①であり、中には②を浮かべる人もいる、というレベルのはずです。
 では50代半ばという年齢の、現在のアタシが①や②のゲームをやってるか、と言えば「①は皆無、②はごく稀」ということになる。
 ②も長くやってないんだけど、これは今後やることになる可能性がある。何故なら②は「人間関係の変化でどんどん変わる」からです。
 極端な話、例えば家族が出来たら、たぶん②をやる可能性は増えるわけで、だから②にかんしては今後、ゼロになるとも機会が増えるとも言い切れないのです。

 となると①です。
 アタシが①をやらなくなった時期は1990年代後半だったと思う。年齢で言えば30歳になるかならないかの頃。
 これはかなり早い方だと思う。ま、統計があるわけではないのであくまでアタシの感覚だけど、最初からゲームをやらない人は除外して、それなりにゲームをやってきた人間がゲームをやらなくなる年齢としてはたぶんかなり早いような気がする。
 その前に、ココに書いたこととも重複するのですが、アタシがゲームをやるようになった頃のことを書いておきます。
 ビデオゲーム最初の大ヒットは誰がなんと言おうと「スペースインベーダー」なのですが、これが小学生の頃です。
 それ以降、「ギャラクシアン」などのインベーダー発展系ゲーム、そしてドットイート型のアクションゲーム「パックマン」などが登場し、さらにトップビューではなくサイドビューを採用し、ジャンプの要素を取り入れた「ドンキーコング」あたりでビデオゲームは百花繚乱の気配が出てきます。
 そして、これはココに書きましたが、そうしたビデオゲームをプレイする環境も整いだし、最初は喫茶店だけだったのがゲームセンター、そして駄菓子屋の店頭でまでプレイ可能になった。
 さらには家庭用ビデオゲームや家庭用マイコン(後のパソコン)、電卓サイズの電子ゲーム機の登場で、いよいよ「大人から子供まで」誰でも気軽にビデオゲームに触れられる環境が構築されていったんです。

 そうした、ビデオゲームが世に広まる時期に小学生~中学生だったアタシが影響を受けないわけがなく、当然のようにゲームに強い関心を寄せるようになった。
 ジャンルも多岐に渡るようになり、アタシが高校生の頃には「ロールプレイングゲーム」なる、まったく未知なジャンルの登場、さらにグラフィックとサウンドも目に見える進化を遂げて、いずれは「ゲームは娯楽の中心的存在になる」と疑わなくなってきた。
 しかし1980年代前半のこの時期にあったのは①だけです。
 要するにアタシが興味を持った<ゲーム>なるものは①、つまり「ひとり遊びを基本とした」ゲームだったわけで。

 そんなアタシが最後に熱中した①に相当するゲームはスーパーファミコン用の「MOTHER2 ギーグの逆襲」でした。
 とにかくこのゲーム、人間の持つすべての感情を露呈させるがべく作られているかのようで、しかも<狙い>だけではなく、ちゃんと本当に感情を動かす出来になってたのがすごかった。


 実際、アタシは「MOTHER2」をクリアした時、一種の虚脱状態になった。そしてこうも思った。
 今後、いくらでも「良く出来たゲーム」も「面白いゲーム」も「斬新なゲーム」も出てくるだろうけど「MOTHER2」ほど大小の起伏のある、工程そのものが楽しいゲームに巡り会えるのか、と。
 この不安は現実のものとなった。
 以降、アタシはどんなゲームをやっても、あ、この場合のゲームってのは①のゲームだけど「何だかなぁ。つまらなくはないんだけど、かといって何としても先に進みたい、ともたいして思わないんだよなぁ」みたいになったのです。

 少なくともビデオゲーム黎明期の永久ループのものを除いて、①に該当するゲームは「クリア」という概念がある。当然プレーヤーはクリアを目標としてゲームを進めていくわけです。
 クリアにたどり着くまでの<波>が高ければ高いほどクリアした時に高揚感を得られる。それはわかるのですが、本当に知らず識らずのうちにアタシは「クリアだけを目指して、肝心の工程をぜんぜん楽しんでいない」自分自身に虚しさと<疲れ>を覚えるようになっていった。
 いったい何のためにゲームで遊ぶのか、それはクリアしたいからなのか?いやクリアさえ出来ればその工程がまったく楽しくなくてもいいのか?
 よしんば「工程が楽しければそれでいい」のであれば、もうクリアという目標なんて意味がないんじゃないか・・・。

 そもそもアタシは②にかんしてはあまりやっていない。ま、友達がいなかったとも言うんだけど、「桃太郎電鉄」などのボードゲームや「マリオパーティ」のようなパーティーゲーム自体にあまり興味がない。
 それでも友達と集まった時にこれらのゲームをやったことはあるんだけど、別に楽しくなかった。まだスポーツゲームやレースゲームでの対戦は「駆け引き」と思えたんだけど、ボードゲームやパーティーゲームは「結局、相手の邪魔をした方が勝ちじゃないか」としか思えなかったんです。
 アタシはね、別に綺麗事を言う気はないんだけど、自分の実力とか運が上回って相手に勝つことには爽快感を感じるけど、周りの人間を貶めて、周りが落ちていって、その結果自分が上になることに一切歓びを覚えないタチなんです。
 人として悪いこと、とか、相手がかわいそう、とも違う。本当に単純に、嬉しくないだけ、というかね。
 これ、逆の立場でも同じで、つまり自分が貶められる立場でね、んで一緒にやってる友達が「してやったり」みたいな顔で喜んでるのを見ると「こんなことして勝って嬉しいのかなぁ。むなしくならないのかなぁ」なんて考えちゃう。
 早い話がアタシはその手のゲーム、②に相当するゲームにはあまり向いていないのです。ま、とは言えスポーツゲームはまた別なんだけど。

 話を戻します。
 「MOTHER2」をクリアしたのはたしか1995年のはじめくらいだったと思う。
 1995年と言えば初代プレイステーションが発売されてすぐで、それでもアタシはまだ①に相当するゲームを諦めてなかったのでプレイステーションも購入している。


 しかしそのプレイステーションでも、本当にやりたいと思えるゲームになかなか出会えなかったのですが、そのタイミングでとんでもないものが流行の兆しを見せ始めるのです。
 詳しくはココを読んでもらいたいのですが、とにかく1995~1996年頃、ミニテトリンなるキーチェーンゲームが登場するのです。
 元となったテトリスは、まァ、アクションパズルってことになるんだろうけど、ロシアで開発されたこのゲームが日本で話題となったのはファミコンに移植されてからです。
 テトリスは「落ち物」という新たなゲームカテゴリを確立し、様々な亜種や発展系が登場しました。これらの亜種&発展系は書けばキリがない。それこそ「ぷよぷよ」もテトリスなしに登場したとは思えない。
 これらを「ミッキー&フレンズ」に倣って「テトリス&フレンズ」としますが、テトリス&フレンズとミニテトリンは決定的な違いがあったんです。
 テトリス&フレンズは①か②か③かで言えば、もう文句なしに①に該当する。テトリスにクリアという概念があったかどうかはともかく、ゲームを進める毎に難易度が上がっていき、プレーヤーはそれにチャレンジする、という構図は①そのものです。
 しかしミニテトリンはまったく違う。というかミニテトリンは①ではなく③、つまり「暇つぶしゲーム」だったんです。

 ①に相当するゲームはテトリスに限らず、ステージ(ないしステージに相当するもの)をクリアするたびに難易度が上がる。つまり少しずつ上がる難易度にチャレンジしながらプレーヤーは上達、及び能力が上がっていき、最終局面で最強と設定されたステージをクリアするわけです。
 ゲームを進めるほどに難易度が上がる、これは①の掟だったと言ってもいい。クリアという概念がなく永久ループだった黎明期のゲームにさえ、この条件は当てはまる。
 ところが、制作者側からすればこの難易度を上げる匙加減が本当に難しい。名作と呼ばれる、それこそ「スーパーマリオブラザーズ」などはその微調整が絶妙なのですが、最初のステージからいきなり難しかったり、次のステージで急に難易度が大きく上がったり、逆に難易度の高いステージの後に低難易度のステージが延々続いたりする。
 ま、こういうゲームは著しく評価が低いのですが、アタシはね、ミニテトリンへのハマりが加速する毎に、そもそも「ゲームを進めるほどに難易度が上がる」というのは「守らなきゃいけないことなのか」と疑問を持つようになったわけで。
 ミニテトリンにもモードによってはステージクリアの概念はあります。しかしステージをクリアすればそれで終わり。続きはない。もちろんユーザーの意思で続けてゲームを楽しむことは出来るんだけど、前回クリアしたかどうかは一切問われない。要するに何度クリアしようが難易度は変わらないのです。

 正直「難易度が変わらない」ことが狙われたことなのかはわからない。たぶんキーチェーンゲームのハードウェアの性能上、速度を速くすることが出来なかったんだろうけど、だからこそ、ゲームなんかほとんどやらないような人までミニテトリンを楽しむようになったと思っているんです。
 ミニテトリンはテトリスに慣れていれば、何も難しいゲームではなかった。極端に言えば惰性で出来る。ファミコン版やアーケード版のように難易度は上がらない(=速度は上がらない)から、どんな時も惰性で遊べてしまう。


 ここで③=暇つぶしゲーム、という新しい仕分けが誕生した。
 ゲームとは言うものの、③に相当するゲームは「楽しむ」とか「遊ぶ」とはあきらかに異なるものです。
 遊びほど真剣にやらないと面白くない、とはよく言われますが、①に相当するゲームがアタマや反射神経を100使うとするなら③に相当するゲームはせいぜい20とか30くらいしか使わない。ゲームをしながら他のことを考えたり、またテレビを見たり、なんてことも余裕で出来る。
 しかしまったく何もすることがない、という感じでもない。言っても指もアタマも多少とは言え動いているんだから。

 先ほどアタシは「工程が楽しければそれでいいのであれば、もうクリアという目標なんて意味がない」というようなことを書きました。
 でもね、③にあたるゲームって「別に工程もたいして楽しいわけではない」のです。ただただ、気がつくと、やってしまう。つまりは中毒性です。いや今の言い方なら依存症か。
 となるとです。ミニテトリンはアルコールやカフェインやタバコに近い。味(=面白い)は二の次で、とにかく、何だかわからないけど、気がつけば手が伸びてしまう。当たり前だけどアタシが①のゲームをやることでおぼえた<疲れ>なんて感じるわけがない。

 ある意味これは①や②よりもよほどすごい。ま、すごいとも危険とも言えるんだけど。
 とまあ、この辺りでPage2に続きます。

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