こないだココにAdoのことを書いたんだけど、Adoにたいして低評価したがる輩がやたら言いたがることがあります。

自分で曲作ってないじゃん

もうこんなの、だから?としか言いようがないし、曲を作る能力とヴォーカリストとしての能力は一切関係ない。さらに曲を作れる人が表現する人よりもエラい、なんてこともあり得ない。
それこそAdoと並んで書いた美空ひばりは?弘田三枝子は?別に彼女たちも自分で曲作ってないけど。

つかこれは何度も書いてるけとだけど、作品を作る能力とは別に「他人が作ったものをちゃんと自己消化して、でも創作者の意図からははみ出さないように表現出来る」のってものすごい能力なんですよ。
でも人は「ゼロからモノを作る人」を必要以上にありがたがる。もちろんそれはそれですごいことではあるんだけど、実は幅が狭いとも言える。1から100まで自分でやらないと気が済まないってのもあるだろうし、すでに50あるものを100に近づける能力がない人とも言えるんだから。

さて、ドラえもん映画などで監督をつとめたアニメーションディレクターの芝山努さんが逝去されました。
当然のようにSNSでは、東映動画で同期だった宮崎駿と比較する声が多く挙がっていたのですが、こうやって見れば宮崎駿は典型的な「1から100まで自分でやらないと気が済まない」人であり「すでに50あるものを100に近づける能力がない」人です。
もちろん宮崎駿も原作付きのアニメを手がけたことはあるんだけど、それこそ「ルパン三世」でも、とくに「カリオストロの城」なんかは<傑作>ではあるけど「モンキー・パンチの世界」ではなく完全に「宮崎駿の世界」という評価で一致しています。というかモンキー・パンチ自身がそういう評価だし。

芝山努は完全に「他人が作ったものをちゃんと自己消化して、でも創作者の意図からははみ出さないように表現出来る」人でした。
「のび太の大魔境」を観た藤子不二雄の藤本弘先生が「監督を変えてください」と言ったのは有名だけど、それはそれまでの監督に不満があったからでしょう。それは間違いない。
でもここで芝山努という超優秀な監督を得られたのは幸運だったとしか言いようがない。もし芝山努が映画に関わらなかったら今も続く映画シリーズになったかはわからない。

というかね、アタシはずっと「監督を変えてください」ではなく「監督を<芝山努さんに>変えてください」と藤本先生が言ったと思ってる。ま、何の確証もないただの妄想ですが。
というのもそれ以前に一本、藤子不二雄の映画作品の監督を芝山努がやったことがあって、それが「21エモン 宇宙へいらっしゃい!」です。
何しろ古い作品なので作画のレベルは高いとは言えないけど、原作の空気感をそのまま封じ込めたような作品で、それでいて実に上手くエッセンスを抽出してコンパクトにまとめている。
だからね、あれを観て「あ、この人に任せたら大丈夫」と思ったんじゃないか。つまり藤本先生の頭の中にずっと「芝山努」という名前があったんじゃないかと思っているのです。


この動画を作るにあたって久々に旧作(つまり今上映されてる<新>じゃない方)も見返したんだけど、とにかく時間配分が完璧すぎる。原作と同時進行というきわめてハードかつトリッキーな制作体制であるにもかかわらず、です。
すでに完成作品としての原作がある状態からスタートしてる<はず>の<新>はここでもはるかに及んでいない。
時間配分だけでなく、日常パートと冒険パートの空気感の変え方とか、切り替え時のスムーズさとか、旧作はとにかく演出の力量が随所に見えるんです。

宮崎駿は天才です。だから「宮崎駿なき後のスタジオジブリ」というのはよく取り沙汰されるけど、それを言うなら間違いなく芝山努も天才です。もうこんな<咀嚼>が上手い、どんな作品でもちゃんと漫画をアニメーションにアダプテーション出来る人は出てこないと思う。
でもはじめの方でも書いたように、アダプテーションの天才は天才とは認識されない。それがすごくもどかしい。

いやもし天才なんて安易に呼びたくないならそれでもいいよ。でもせめて<名人>くらいは呼んでもいいと思うんだけど。ってそれじゃ高橋名人みたいになるんで、やっぱもどかしい。