「ニッポン無責任時代」から始まった、通称・東宝クレージー映画シリーズ、特に「作戦」シリーズ呼び習わされる、植木等単独主演ではないクレージーキャッツ主演映画は試行錯誤の連続だったといっていいはずです。

 東宝という会社は特にシリーズ物を得意としていましたが、他社のシリーズ物とは少し毛色が違います。
 例えば松竹で撮られた「男はつらいよ」との比較がわかりやすいと思う。「男はつらいよ」は100%辻褄があっているかといえばそうではないんだけど、それでも物語の連続性がある。何度もリリーとの再会と別れを繰り返すエピソードなど、物語に連続性があればこそ可能なわけです。
 しかし東宝のシリーズ物に物語の連続性は一切ありません。「社長」シリーズにしても「駅前」シリーズにしても、「若大将」シリーズにしても、「似たような」設定で「似たような」物語が繰り返されるだけです。(もちろん「サザエさん」シリーズのような例外はあるけど)

 「ニッポン無責任時代」と「ニッポン無責任野郎」は「社長」シリーズでいえば「三等重役」シリーズにあたります。
 要はシリーズ化が可能なほどのヒットを飛ばした無責任物をどうやってシリーズ物として成立させられるかで、単発ヒットではなく「息の長い商品なるかどうか」が決まるわけです。
 一般には「無責任男から有言実行男への転換」は東宝内のモラリズムの問題だといわれるし、それもあるとは思う。
 か、アタシには東宝内、というかプロデューサーである藤本真澄に「無責任男のままではシリーズ化は不可能」という判断があった、というか「物語を整理整頓して<ウケる>箇所を明確にする。それをクリアしないと単発で終わる」という判断があったのではないかと思うのです。
 「無責任物から毒と風刺とギャグを抜いた」のが「日本一」シリーズといわれますが、それは田波靖男と笠原良三の資質の違いであって目的ではなかった気がする。それよりもどうやって無責任物を活かしながらシリーズ化が可能なフォーマットを作るかが重要だったはずなんです。
 結果、「日本一」シリーズは目論見通り「「無責任」物のフォーマット化」に成功し、シリーズ化されるのですが、課題は残った。それは「植木等主演のシリーズだけではなくクレージーキャッツ全員主演映画をどうするか」です。
 「ニッポン無責任時代」「ニッポン無責任野郎」の二本が興業的にもクオリティ的にも成功し、スターの座についた植木等は東宝専属という形になります。その上、渡辺晋が東宝のプロデューサーに迎えられた以上、クレージーキャッツ主演の映画は東宝製作しかあり得ない。
 東宝としても植木等単独主演映画を続けながら、クレージーキャッツ主演映画を作るのはメリットが大きいと判断したに違いない。

 しかし、後に「作戦」シリーズとなるクレージーキャッツ主演物は、無責任物のヒットによって、というか植木等がメインで出演する映画なのだから興行的な土台はあったわけですが、物語の土台は、何もなかったと言っていい。
 となると必然的に試行錯誤を繰り返すしかなくなるわけで、第一作である「クレージー作戦・先手必勝」を観るだけで東宝がいかに苦労していたかがわかります。
 クレージーキャッツの全員が主演なのだから植木等だけが目立ってしまっては「日本一」シリーズとの差異がなくなってしまう。だからこそ7人一組での行動をさせようとしました。しかしこれがことごとく上手くいかない。
 「クレージー作戦・先手必勝」から(タイトルにクレージーとは入っていないけど)「無責任遊侠伝」までは7人一組の行動を模索し続けたわけですが、植木等の父君のいう通り「何でああダメなのか」といった映画にしかならなかった。
 基本的なことですが、1時間半なり2時間の映画で、7人では一組にするには多すぎるのです。これがもし「男はつらいよ」のように物語の連続性があるのなら各キャラクターを書き分けることも可能だったかもしれないけど、毎度振り出しに戻ることが前提の東宝のシリーズ物の概念では、これはどうしようもない。

 もうひとつの問題は監督です。
 古澤憲吾に任せたら、やはり「日本一」シリーズとの差異がなくなる。かといって東宝としても「上手く育てればドル箱シリーズになる」という思惑もあったはずで、だからこそ「先手必勝」では監督に久松静児、脚本に池田一郎という手堅い(小林信彦にいわせれば格を上げた)スタッフで撮られることになったわけですが、結果は「失敗作」といった出来になってしまった。
 久松静児が失敗した理由は明白で、松竹で撮られた「クレージーの花嫁と七人の仲間」と同じく「クレージーのもつモダニズムを活かせなかった」ことに尽きる。
 それは東宝もわかっていたはずで、新人ながらモダンな感覚があると目されていた坪島孝や、「お姐ちゃん」シリーズでモダンな作風を見せていた杉江敏男に撮らせたことをみてもわかります。(杉江敏男は「香港でのロケ経験がある」という理由で起用されたとするのが定説ですが、それよりモダニズム感覚を買われたのだと思う)
 が、少なくとも公開当時の評価を考えると、すべての面で中途半端だったことは否めません。

 どうしても軌道に乗らない「作戦」シリーズでしたが、おそらくこの時期でしょう。名匠・市川崑がクレージー映画を撮らせろといってきている。
 市川崑こそ相当早い時期からクレージーキャッツを買っていたうちのひとりで、事実自身がプロデュースした「足にさわった女」ではハナ肇を主演格で起用しています。これは当時のハナ肇のランクを考えるなら大抜擢といっていいはずです。
 市川崑に任せれば間違いなく「シリーズのフォーマットとなるレベル」の作品に仕上がるだろうし、何より一番の問題であるモダニズム感覚が横溢した作品になるのも間違いない。
 それでも、結果として藤本真澄は市川崑の希望を退けたわけですが、「わかりやすい娯楽映画を望んだ」渡辺プロダクション、というか渡辺晋の意向から外れるものが出来た可能性が高い。市川崑の映画はややハイブロウで、大衆的な作風ではなかったからです。

 さらにこれもおそらく同時期に小松左京原作の「日本アパッチ族」をクレージーキャッツ主演で映画化する話が持ち上がっている。これはシナリオも完成し、あとは製作を待つばかりでしたが、結局ペンディングになってしまった。
 理由は諸説あり、監督に予定されていた岡本喜八の前作「江分利満氏の優雅な生活」があまりに不入りだったため企画を蹴られたといったものから、小松左京が最終的に映画化を断った、などであるが、小松左京、岡本喜八、渡辺晋など多くの関係者が鬼籍に入った今、真相はわかっていません。(この考察はココでやってます)
 そもそも、もし完成していればまったくの異色作となったであろう「日本アパッチ族」を東宝クレージー映画の一本として数えるつもりだったかどうかさえも定かではない。(ハナ肇主演の「おれについてこい!」や谷啓主演の「空想天国」「喜劇・負けてたまるか!」、ハナ肇以外が出演した「喜劇・泥棒大家族 天下を盗る」のように傍流の扱いになったかもしれない)

 ここでひとりの監督が浮上します。巨匠にして東宝映画最大の功労者の山本嘉次郎です。
 東宝の前身のひとつであるP.C.L.はもともと録音スタジオとして出発し、やがて映画の自主製作も始めるのですが、こうした経緯もあり他社ではなかなか難しかった「音楽喜劇」を中心に製作する会社として始まったのです。
 P.C.L.の第1作は木村荘十二監督の「音楽喜劇 ほろよひ人生」(1933年)で、続く「純情の都」(1933年)「只野凡児・人生勉強」(1934年)も木村荘十二が担当した。
 3本とも当時の邦画レベルを考えるなら水準以上の出来ですが、さすがに木村荘十二に全部を任せるわけにもいかず、日活脚本部に所属し、数本の作品で監督もつとめていた山本嘉次郎を引き抜くことになった。
 山本嘉次郎の引き抜きはエノケンこと榎本健一の要望だったと言われますが、譜面が読める山本嘉次郎は「音楽喜劇映画製作会社」ともいえたP.C.L.のエースに育っていくことになります。
 やがて山本嘉次郎は音楽喜劇だけでなく「坊ちゃん」「馬」「綴方教室」など多彩なジャンルで才能を発揮することになりますが、とくに1940年に公開された「孫悟空(エノケンの孫悟空)」はオールスターの超大作として作られた音楽喜劇ですが、後に特撮の神様と謳われることになる円谷英二が本格的に特撮に関わった作品としても有名で、さらに山本嘉次郎×円谷英二は「ハワイ・マレー海戦」などの戦争映画でもコンビを組み、文字通り東宝の屋台骨となるのです。(「孫悟空」の話はココを参照)
 いわば東宝カラーといわれる「音楽喜劇」と、後に「ゴジラ」などに繋がる「特撮スペクタクル」は山本嘉次郎が築いたといっていい。
 さらに戦後には、もうひとつの東宝カラーとなる「サラリーマン喜劇」へと繋がる「ホープさん」でも監督をつとめるなど、山本嘉次郎なくして東宝の発展はなかったといってもけしてオーバーではないわけで。(弟子として黒澤明を育てるなどの貢献もありますが、話が逸れるので割愛。さらに余談ですが、東宝クレージー映画の第1作となった「ニッポン無責任時代」は、山本嘉次郎が基礎を作った「音楽喜劇」と「サラリーマン喜劇」のハイブリッドだったことがわかる)

 市川崑を蹴った。さらに(諸説あるとはいえ)岡本喜八も蹴った。誰しもが認める監督を退けて、東宝は数々の基礎を築いた山本嘉次郎にクレージーキャッツ映画の監督を要請する。
 たしかに山本嘉次郎なら、市川崑も岡本喜八も文句は言えない。東宝としても「ヤマカジさんならクレージー映画のフォーマットとなる作品が作れるのではないか」という期待もあったはずです。
 しかしいくら実績があろうと、これは無理すぎた。
 「花のお江戸の無責任」が撮られた1964年といえば山本嘉次郎は引退寸前といっていい時期です。しかも戦後は脚本家としてのウエイトが高くなり、監督としては、特に昭和30年代に入ってからは撮った本数も極端に少ない。
 いくら手詰まり感があったとはいえ、ドル箱に育てたい思惑があったはずのクレージーキャッツ主演映画の監督に、良くいえば超がつく大御所、悪くいえば監督としては生きた化石状態の山本嘉次郎を起用する、というのは、あまりにも無茶で、しかも後年、萩原哲晶が語ったところによると、体力的にもかなり厳しそうだったといいます。

 正直「花のお江戸の無責任」はあまり芳しい評価がありません。
 山本嘉次郎は田波靖男の初稿を没にしてまで「エノケン映画のようにしたい」という明確な意図を持って製作に挑んだといわれますが、シリーズの他作品と比べても「かったるい」映画にしかなっていない。
 が、けして山本嘉次郎が耄碌していたわけではない。実はちゃんと「戦前、つまり全盛期のエノケン映画」風になっているんです。
 植木等と榎本健一の個性はかなり違うのですが(共通点を挙げるなら、リズム感の良さと歌えることくらいです)、エノケンが得意にしていた歌舞伎ダネということもあったのでしょう、上手くアダプテーションされており、如何にも<ヤマカジさんふうのシネオペレッタ>(シネオペレッタ=山本嘉次郎による造語)になっています。
 戦後、エノケン主演、山本嘉次郎監督の映画は、古川ロッパとのダブル主演の「新馬鹿時代」と「四つの恋の物語」という恋愛オムニバスのうちの一本(「第3話 恋はやさし」)、ヒューマンドラマ「動物園物語より・象」を除いて実現していません(エノケン主演作のうち数本には関わってはいるが、脚本という形に留まっている)。しかも「新馬鹿時代」も「四つの恋の物語」も「象」も音楽喜劇ではない。
 エノケンの身体的問題もあったのですが、もう戦後の山本嘉次郎には音楽喜劇を作るだけのエネルギーがなかったのも間違いない。(高峰秀子著「わたしの渡世日記」に山本嘉次郎の体調について具体的に書いているが割愛)
 だから「花のお江戸の無責任」では、もう、相当無理して、音楽喜劇にチャレンジしたに違いない。実際エノケン映画と遜色ないものが出来たのは山本嘉次郎の頑張りがあればこそなのですが、もうこれを言えば身も蓋もないけど、そもそもエノケン映画をまんま作っても受け入れられる時代ではなかったのです。
 はっきりいえば、これは東宝のプロデューサーが悪い。逆にいえば山本嘉次郎には何の責任もない、と言い切れます。

 ここにきてとうとう東宝は「実績のある監督を起用してシリーズ化可能なフォーマット」を作ることを諦めます。
 「クレージーキャッツ結成10周年記念」と銘打たれた「大冒険」は、「ニッポン無責任時代」から「日本一」シリーズにおいてクレージーキャッツに往々しいスピード感とモダニズムを実践してきた古澤憲吾を起用するに至るのですが、Page2へ続く。

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