「大冒険」の時にギャグマンとして起用された中原弓彦(小林信彦)は、「クレージー大作戦」で再びアイデア提供という形で参加しています。ただし「大冒険」の時は(渡辺美佐の推薦もあって)東宝から請われる形でしたが、「クレージー大作戦」は古澤憲吾の要望であったと思われます。

 いつも通りの植木等、を封印された古澤憲吾は出来上がった台本を見て面白くできる自信がなかったのだと思う。いや、いつも通りの感じで植木等を使えれば面白く出来る自信はあったはずですが、それが不可能な以上、出来るだけアイデアを詰め込んで、現場ではなく台本の段階で極力面白くしておかなければならない。
 にしては、出来上がった台本では、まだアイデアが足りないと踏んだのだと思う。

 本来古澤憲吾は現場主義で、台本には無頓着な方のはずです。笠原良三のホンを「いつもこんなもの」という程度の評価をしながら積極的に台本作りに参加したという話は一切聞かない。実際「日本一」シリーズでの面白いシーンは、植木等の言い方や動きで笑わせており、セリフに手を入れたような形跡はない。つまり「どんな台本でも現場で面白くするのが監督」と考えていたフシがあります。(但しこれはクレージー映画ではなく「若大将」シリーズの話ですが、古澤憲吾は「(田波靖男の台本について)つまらないシーンはどんどんカットした」と発言しています。まあ「カットした」とは言っているものの「手直しした」とはいってないけど)
 それでもさすがに前半と後半で話が繋がっていない「大冒険」の初稿を渡された時は弱りはてたようで、多少強引とはいえ上手く台本を繋げた中原弓彦の能力を買っていたのでしょう。
 「クレージー大作戦」の場合、プロットは古澤憲吾、3人の脚本家(笠原・田波靖男・池田一郎)と坪島孝、それに渡辺晋で考えたわけですが、実際の執筆は田波がひとりでやっている。だから前半と後半が繋がらないというようなことはなかったはずで、それでも中原弓彦を呼んだのは、前半と後半が繋がらない台本を渡された時と同等レベルで困っていたのではないか。
 それくらい「いつも通りに植木等を使えない」ことは古澤憲吾にとって苦しかったはずなのです。

 それでも古澤憲吾はよく頑張ったと思う。
 詰め込まれたアイデアを実に上手く「絵」にしており、せっかくのアイデアが消化不良になっている場面はない。
 独自のスピード感と引き換えに粗いとか雑とかと言われることが多い古澤演出ですが、少なくともこの映画に関してはかなり緻密に撮っている。特にクライマックスの10億円強奪シーンからラストに向う演出は圧巻で、スピード感を損なうことなく得意の細かいカットで繋ぎ、カットひとつひとつも実に丁寧です。コメディ映画の基本もキチンと守られている。
 ただしひとつだけ難点を上げるとするなら、クライマックスからクレージーキャッツらしさは若干希薄になってしまっているのは否めません。
 それでもこれだけのアイデアをスピード感を維持しながらとなると致し方ないことで、では他に誰が、東宝のどの監督ならもっと良く作れたかといわれれば、いないと言い切れます。

 古澤憲吾の一世一代といっていい演出と、渡辺晋の執念によって「クレージー大作戦」はシリーズでも屈指の出来になったと思う。難点もいくつかありますが、それでも完成度の高い作品に仕上がったと思う。
 が、渡辺晋はこれ以降の作品で「ナベプロ方式」の脚本作成を行わなかったし、古澤憲吾に至っては観客動員が落ち込んだ1969年の正月映画「クレージーのぶちゃむくれ大発見」まで「作戦」シリーズの監督に起用されていない。
 超大作「クレージー黄金作戦」と「クレージーメキシコ大作戦」は古澤憲吾と並んでメイン監督となっていた坪島孝が担当し、のみならず「日本一」シリーズも「日本一の裏切り男」から須川栄三にとって代わられた。

 この辺りの事情はもうひとつわからない。もしかしたらこの映画の制作途中に渡辺晋と古澤憲吾の間で軽い軋轢があったのかもしれません。
 渡辺晋も古澤憲吾も鬼籍に入っている以上、すべては推測でしかないし、この後「日本一の男の中の男」は通例通り古澤憲吾が演出しているのだから軋轢とはまた違うのかもしれない。
 しかしそれでも「ナベプロ御用監督」とまでいわれ、渡辺晋が海外に行った際には空港まで見送りにいったとされる古澤憲吾が突然重用されなくなったのにはやはり違和感は拭えないのですが、まァ、これ以上の推測は止めておきます。

 アタシは「東宝クレージー映画はすべて古澤憲吾に任せるべきだった」と考える、いわば極端な人間です。だから「古澤憲吾が重用されなくなった」理由にこだわるのですが、せめて「クレージー黄金作戦」だけは古澤憲吾に撮らせるべきだったと思う。
 古澤演出と坪島孝の演出はまったく違い、どちらがいいかは好き嫌いのレベルでしかないのけどが、少なくとも古澤憲吾はクレージーキャッツ全員を活かす術を「クレージー大作戦」で経験済みであった、と言える。
 150分を超える超大作なのだから、本来こういう長尺の映画こそ「メンバー全員にスポットを当てる」映画にするべきであり、しかし「クレージー黄金作戦」はそうはなっていない。

 「作戦」シリーズは谷啓を重要視することで最低限の面白さを確保できるようになった。「クレージー大作戦」の次の作品となった「クレージーだよ・天下無敵」は「クレージーの無責任清水港」と同様、植木等と谷啓のコンビ作品で、しかも渡辺晋が力を入れまくった「クレージー大作戦」より興行成績が良かった。
(6位「クレージーだよ・天下無敵」、10位「クレージー大作戦」。ちなみに「クレージーだよ・奇想天外」は7位)
 そこだけ見ると結局作品のクオリティ云々ではなくソロバン勘定が勝ったといえなくもない。
 「クレージー黄金作戦」は植木等・谷啓・ハナ肇のメイン3人+他のメンバー4人というより、超大作なのだから植木と谷のコンビにハナを加えた、だけといった方がいい。
 正直あれだけ「クレージー大作戦」で様々なことにチャレンジしておきながら、「クレージー黄金作戦」、「クレージーの怪盗ジバコ」、「クレージーメキシコ大作戦」では安直、安直といって悪ければ手堅い作り方になってしまったのが残念でなりません。

 再び古澤憲吾がメガホンをとった「クレージーのぶちゃむくれ大発見」は実質ハナ肇が主役といっていい作品で、これはシリーズ初の試みです。他にも「クレージー大作戦」同様7人一組にチャレンジしている。
 正直にいえば成功したとは言い難い出来ですが、チャレンジ精神に回帰したことは評価していい。
 次作「クレージーの大爆発」では「大冒険」以来の本格的特撮を使い、これまた「クレージー大作戦」と同じく犯罪コメディに挑戦することになります。
 こちらはどうしようもないハチャメチャな展開ながら、ギャグのわかる特技監督、中野昭慶の功績もあってカルト臭すら漂う怪作になっている。
 これらはクレージー映画の興行価値が落ちてきたからこそ出来たのでしょうが、だったら何故「クレージー黄金作戦」から「クレージー大作戦」の流れをキープしなかったのか、本当に残念でなりません。
 興行成績に一喜一憂せずに流れをキープしていたなら、「グループとしての面白さがまったくない」と酷評された「クレージーメキシコ大作戦」のような結果にはならなかったのではないか、と。
(後年の目で見れば「クレージーメキシコ大作戦」はけして悪い出来ではないのです。しかし時流に乗ってなかったことも間違いないと思う)

 結果的にですが「クレージー大作戦」はシリーズからポツンと浮いた存在になった。後続となる作品が作られなかったからです。「クレージーのぶちゃむくれ大発見」と「クレージーの大爆発」は後続といえなくはないけど、時間が空き過ぎている。
 何度も言いますが、<チャレンジ精神>を失わずに流れをキープしていれば後年「クレージー大作戦」を見た人が覚える違和感もなかったはずで、今も「犯罪コメディの快作」と認識されていたような気がするのです。

 さて、ここからは少しばかり私感を書いていきたいと思います。ま、ここまでも私感と言えば私感だけど。

 正直「日本一」シリーズ以外の、クレージーキャッツ全員が主演する映画をどうすれば良かったか、出口はなかなか見えません。
 ただヒントがあるとすれば、Page1で書いた、山本嘉次郎を監督に起用したことにあると思う。
 山本嘉次郎本人を監督として起用したこと自体は間違いだったと思うのですが、東宝カラーという原点に立ち返ってサラリーマン喜劇抜きの、完全に音楽喜劇と作れば違った展開があったように思う。
 数々の東宝クレージー映画に出演し、日本テレビ「光子の窓」などでもクレージーと共演していた草笛光子は「クレージーでミュージカル映画が作られなかったのが残念」と語っています。
 草笛光子は松竹歌劇出身で、非常にモダンな感覚を持ち合わせた人でした(現役の人に過去形を用いるのは失礼ですが)。舞台ではクレージーともミュージカル風の狂言で共演したそうですし、「007」シリーズの大ファンであるという草笛光子からすれば、クレージーならモダンなミュージカル映画が作れると考えていたというのは注目に値します。

 クレージーの映画は一見ミュージカル風ですが、実はミュージカルでも何でもない。当時よくあった歌謡映画ほどではないけど、ミュージカルというには挿入歌が少ないし、「音楽ありき」で物語が進むわけではないものを、あくまで個人的にはですが、ミュージカルとは呼びたくないんです。
 その点、山本嘉次郎が撮ったエノケン主演映画は「日本流のシネミュージカル」(山本嘉次郎によると<シネオペレッタ>だけど)といって差し支えないものばかりで、東宝クレージー映画とはジャンルが違うといってもいい。
 「ニッポン無責任時代」から派生した植木等単独主演の「日本一」シリーズは、音楽喜劇の要素は残しながらも基本はサラリーマン喜劇です。となるとクレージー全員主演映画は、サラリーマン喜劇の要素(風刺なども含まれる)を抜いて、完全な音楽喜劇=シネミュージカルにするしかなかったように思う。
 これなら「物語の土台」は何もいらない。というかストーリーも至極単純なもので構わない。ただひたすらクレージーたちが歌い踊っていればいいのだから。

 いわばショウ映画、レビュウ映画です。たとえば「踊る狸御殿」あたりを想像してもらえればわかりやすいかもしれません。
 草笛光子の示唆通り、ショウ映画、レビュウ映画も、クレージーのメンツなら出来たはずですが、問題がないわけではない。
 監督がいないのです。「譜面を読める」山本嘉次郎のように音楽喜劇を作ることが出来る監督は、当時の東宝にはいない。藤本真澄が退けた市川崑も岡本喜八も、本格的シネミュージカル「君も出世ができる」を手がけ、後に「日本一の裏切り男」や「日本一の断絶男」を作ることになる須川栄三も、ショウ映画、レビュウ映画となると疑問符が付く。また古澤憲吾や坪島孝にもそういう素養は見られない。
 かといって他社にまで視野を広げても、それこそ「狸御殿」シリーズを撮ったレビュウ映画の名匠木村恵吾は山本嘉次郎と同じく引退寸前の時期だし、「鴛鴦歌合戦」や「ハナ子さん」といったシネミュージカルや「グランドショウ1946年」のようなレビュウ映画を撮ったことがあるマキノ雅弘も、この時点で何年もその手の映画から離れていた時期です。
 つまり、山本嘉次郎と似た結果になったことは想像に難くなく、それならまだ山本嘉次郎の方が、と思わないこともない。何しろ大功労者ですからね。

 東宝カラーのひとつである音楽喜劇路線が中断したのは、主演をつとめられる役者がいなくなったからです。しかしこの中断期間は山本嘉次郎から連なる「音楽喜劇が撮れる」監督の系譜も断絶させてしまった。(戦前、「支那の夜」などで音楽映画の素養を見せていた伏水修(この人も譜面が読めたという)が早逝したのが痛かったのだけれど、それはいっても仕方がない)
 サラリーマン喜劇路線が、役者でいえば森繁久彌や小林桂樹、監督でいえば松林宗恵や杉江敏男といった「向く」人材に恵まれたのと対照的といっていい。
 喜劇史的にいえば、音楽と笑いを融合させた路線は榎本健一から三木鶏郎グループへバトンタッチしたとされますが、このグループは裏方志向が強く、もっとも道化的であった三木のり平は脇役でこそ輝く人材だったのも不幸でした。(事実、この時も山本嘉次郎を引っ張り出して、三木のり平主演で「孫悟空」や「ちゃっきり金太」をリメイクしているが失敗している)

 結局クレージー全員主演映画は最後まで、これといった形を作れなかった。特撮や海外ロケを売りにして「大作風」にするより手立てが見つからなかった。
 原因は東宝内の人材不足であり、またそれを招いたのはエノケンの正統後継者がいなかったことによります。
 本来ならここにフランキー堺が入ったはずですが、一番脂が乗った時期のフランキーは日活専属で、東宝(厳密には東京映画)に移籍してからは(本人の志向の問題もあってか)出涸らしに近い状態でした。
 「君も出世ができる」が興行的に失敗したのはどうみてもフランキーのせいであり、素人目にもわかるほどの芸達者ぶりが、悲劇的なまでに魅力になっていない。(この時期のフランキー出演作をいろいろ観ましたが、どれもフランキー本人に魅力がないのはたしかです。しかし「君も出世ができる」の場合、抜群の芸達者ぶりを見せつけているだけに、魅力のなさが余計際立ってしまっている。正直ここまで魅力に乏しいシネミュージカル映画の主役も珍しい)
 こうした一連の流れを、東宝や渡辺プロ、そしてクレージー自身に食い止められるわけがなく、誰の責任かといえば、歴史がそうした、としか言いようがない。

 そういった意味でも「クレージー大作戦」は異色でです。特撮にも海外ロケにも頼らず、限られた人材ではあるにしろ衆知を集めて、いわば知恵だけでクレージー映画を一人前の映画にしようとしたのだから。
 成功したか失敗したかなど野暮なことはいうまい。ただ「東宝クレージー映画は何も考えずに安直に作られた」という意見にだけは異議を唱えたいのです。






今では邦画史上ナンバーワンの名作と言われる「七人の侍」さえ、公開当時は「再軍備プロパガンダ映画」という批判があったそうですが、どんな名作でも批判の声はあるし、逆にドラゴンクエストユアナンチャラみたいな映画でさえも賛辞の声があるのも事実です。
何が言いたいかというと、映画に限ったことではなく、作品評なんて「全員が称賛」「全員が罵倒」両方ともあり得ない。それを統一しようとすること自体が無理があるわけで。
中には「賛否両論」と言えるような、世間の反応が真っ二つに割れるような作品もあり、近年で言えば「シン・仮面ライダー」はそういう感じだった。
アタシは封切り当時、まだ生まれてないのでリアルタイムの反応は知らないのですが、この「クレージー大作戦」もそんな感じだったのではないかと睨んでいるのです。これは後年、つまり今、インターネットで「クレージー大作戦」の評価は本当に真っ二つですから。
アタシは東宝クレージー映画では文句なしの傑作「ニッポン無責任野郎」に次ぐ評価をしているわけで、つまりは称賛側なのですが、賛否が分かれることは咀嚼出来たし、ならば「クレージー大作戦」について書くなら「何故、賛否両論になるのか」を書きたかった。
そういう理由で、どちらかというと内容にはあまり触れておらず、そういうことを期待された方からすれば物足りないかもしれませんが、PostScriptの冒頭でも書いた通り、評価はみなさんがしてください。ついでにオタク的観点もアタシがすることではないので、これまたご自由にって感じで。


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