「ゴールデンウイークに観光地に出掛ける?何でそんな疲れるようなことするの?」
こういうことを言う人はたまにいますが、これはもう、興行をわかってない人が如何にも言いがちというか思いがちな「勘違い」です。
例えばガラガラの東京デ◯ズニーランドであったり、ガラガラの映画館で映画を観賞することを何度も味わったことがあれば、「ガラガラ」と「人がひしめいている」状況でどれほど心理状態が変わるかご理解いただけるはずです。
人間というのは思ったほど「中身」が見れないもので、ましてやそれが初体験であれば中身なんかよりも「その時の状況」のがはるかにウェイトが大きくなる。
そもそもの話をします。
文化というものの最終到達地点は<熱>や<圧>だったりする。というか人間というものは流されやすいので、熱気を感じれば自身の感情も熱を帯びるし、逆に寒々とした環境に身を置けばどんどん醒めてくる。そうした空気を切り裂ける人などほとんどいないと決めつけていい。
だから、とくにエンターテイメントを提供する側や宗教は「たとえごく少人数でも<熱>を持った人を作ろう」と躍起になる。最初は本当に少人数かもしれないけど、やがてその<熱>にあてられた人が感化されて行くことを見越して。
本当はその時期、つまり「はじまりのはじまり」がものすごく大事なのです。
しかし「はじまりのはじまり」と言える「小さな熱狂」を生み出すのはかくも難しい。もちろん「小さな」から拡大させていくことにも大きな壁があって難しいんだけど、それでも、どれだけ小さくても<熱狂>してくれる人がひとりでもいる、というのを作り出す方が難易度が高いように思います。
実際それでユーチューバーたちは苦労する。人々は「大衆的」な「ソツのない」ものには熱狂しないので、最初はそれなりにトンガったことをやんなきゃいけないんだけど、尖りすぎてもダメなわけで、そこが本当に大変なんです。というアタシの体験談です。
さて、ここからはちょっと、いやかなり<イケナイ>ことを書きます。
ま、ズバッと書いてしまえば映画泥棒なんですが、何しろ時代は1990年代初頭。まだ例のキャラクターが登場するはるか前の時代であり、もちろんインターネットで動画のやりとりなんて考えられない時代の話です。
この頃、ドリフターズ映画は本当にキャビアみたいなもので、テレビで放送されないのはもちろん、名画座ですらかかることはほとんどなかった。これは当時アタシが在住していた大阪でも東京でも同じなのですが、まだ東京の方がかかる確率は高く、実際アタシは「ドリフターズ映画を観るため<だけ>」の理由で東京に何度か行ったことがあるくらいです。
しかし当たり前ですが、劇場で上映されるだけでビデオなんかない。つまり家では楽しめない。というか繰り返し鑑賞して深く掘っていくなんて出来るわけがない。
そこで熱烈なドリフターズフリークの男がとんでもないことを考え出した。
「スクリーンをビデオカメラで撮影すりゃいいんじゃね?」
まさしく映画泥棒そのものなんですが、仮に「良くない」ことだったとしても発想自体かなり突飛なもので、だからそのアイデアを聞いた時、良い悪い云々以前に「よくそんなこと考えつくな」と思った。
しかもまだ映画館自体もユルく、しかもロードショーを行なうようなちゃんとした映画館でもなかったのもあって、その男は「三脚を立てて」撮影していた。いやぁ、よくやるわ。
これね、実際に撮影した映像を見せてもらったことがあるのですが、ちょっとね、他で味わったことがないほど面白い<体験>だったのです。
島本和彦の発案で「シン・ゴジラ」の発声可能上映会が行なわれたことがありましたが、それを撮影した映像、と考えればわかりやすいんだけど、映画なのに見てる感覚としてはかなりライブに近い。観客の笑い声なんかが入っているからです。

ウチのYouTubeチャンネルは、まァいや「映画レビュー系」なのですが、実はかなり気をつけているのが「映画館で鑑賞した作品」なのか、そして「ビデオ(サブスク)で自宅で鑑賞した作品」なのか、ここにかんしては留意しすぎなほど留意しています。
わりとフラットに見れるのはもちろん自宅で鑑賞した時です。しかし映画館の場合<ウケ>が冷静な判断の邪魔をする。<ウケ>てるなと思う作品はどうしても点数が甘くなりがちで、逆に客席に白々したムードが漂っていたら辛くなる。
それは本当は、映画の面白さとは関係ないんですよ。だからと言って「まったく関係ない」かというとそうじゃない。少なくとも<体験>としては関係ある。実際問題、映画なんてただの娯楽なんだから「映画として面白いか否か」なんかどうでも良くて、一番肝心なのは「<体験>として面白いか否か」なんです。だから変な話、映画としての出来がどれだけ悪くてもですよ、たとえばそれを鑑賞したのが初デートの日で、その映画がきっかけとなって見事カップルが成就したとなったら、体験としては最高レベルってことになるわけで、おそらくそのカップルにとってその映画は「生涯忘れられない一本」になると。
しかしですよ、この<体験>と(エンターテイメントとしての)<出来>の問題はかなり根深いんですよ。つかたぶん、ファンダムというものを考える上でここが一番のネックになってくるように思う。
ここで一冊の本を紹介したい。
著者はナンシー関。この人の批評眼は基本的には捻くれているんだけど、無闇矢鱈に捻くれているわけでもなく、というか「一回揶揄したら最後まで莫迦にしないと気が済まない」というようなことがない。わりと自分の感情に素直で、あ、そういうことかってのを認められる人です。

だからといって揶揄の方向性は最後まで崩さないんだけど、自分の気持ちが変わったら最後微妙に揶揄の矛先がユルまる。だから読後感がいいんです。
そのナンシー関が、もしかしたら世界で唯一の「ファンダム研究のための体験記」を記した著作がある。それが「信仰の現場 すっとこどっこいにヨロシク」です。

これは「現場での体験が如何に心理的影響を与えるか」というところに着目した好著で、この本の中に「釣りバカ日誌」についてこんな著述があります。
すごい。もう狙った笑いが全部ツボに入っている。ウケるのウケないのってもう。私はこんなに爆笑している映画館をかつて見たことがない。(中略)爆笑の上に爆笑が重って、明らかに館内のテンションは上がっていき、私も西田敏行が「白い蝶のサンバ」を唄いながら裸踊りをする無意味な場面では爆笑してしまった。多分1人で観ていたら笑わなかったはずだ。
『多分1人で観ていたら笑わなかったはずだ。』とオトしながらも素直に『爆笑してしまった』と書いてるところなぞ、まさしくナンシー関の名調子なのですが、それはともかくとして、です。
この体験記は「いまだに実物をひとりも見たことがない「「男はつらいよ」を見なければ正月が始まらない」という人を実際に見たい」というところから発しているのですが、もうこれだけで<体験>をともなうことでの凄まじいまでの心理的影響を見て取れるはずです。
もう一度書きますが、たしかにナンシー関の批評眼はかなり捻くれています。しかし先述のように「捻くれすぎてもいない」わけで、ここが非常に重要なんです。
世の中にはまさしく「捻くれすぎた」人もいる。早い話が感情を封じ込めようとするというか、自分の感情に素直になれないというか、本当は心を動かされたのにそれを認めようとしない、先入観、バイアスを優先させてしまうような人です。
人はこれを「逆張り」と言う。つか逆張りってのはいろいろ複雑で、自分に素直になれないだけの問題じゃない。構って欲しいとか、本当にいろいろあるんだけど、それはこの際置いておく。
もし「ファンダム(≠ファン)」を「盲目的信仰」と言い換えるなら、その反対、つまり「盲目的アンチ」というか、イメージ、先入観、バイアスだけでアンチ化する人がかなりいるのも事実です。
ファンダムにしろ盲目的アンチにしろ、アタシから見れば相当な類似性を感じる。ま、そりゃ<盲目的>ってところは共通してるんだからそうかもしれないけど、とにかく、滅多矢鱈に攻撃的なのですよ。
ナンシー関の「信仰の現場」ではここにはあえて目を向けていない。あとがきに1993年に起こった「埼玉愛犬家連続殺人事件」と絡めて若干の危険性を感じている、というようなニュアンスで書いてはいるんだけど、言ってもメディアで発表したものなので(しかも間違いなく主催者側に取材を申し込んで書かれたものだし)、それを書けないのはわかる。わかるんだけど、この本を一冊読んで思ったのは、もしこの人たち(ファンダム)が先鋭化して、暴徒化したらいったいどうなってしまうんだろ、というある種の恐怖心を感じ取ることは可能なんです。
実際ね、盲目的アンチもまさにそうで、いや現代において問題になりやすいのは「ファンダム」ならぬ「アンチダム」の方です。
アンチダム(盲目的アンチたち)がひとりの人間を極限まで追い込んで、その当事者が自殺にまで至る、なんてニュースなんかもう珍しくもない。しかも彼らは罰せられることもなく、罪の意識を感じることもないどころか「正義の行動」だと思ってる。
当然のことながら、そうしたアンチダムについては社会問題として扱われやすいし、議論の対象にもなりやすい。
しかし、一方、ファンダムの方はずっと野放し状態だった。ようやく旧ジャニーズの問題行動や、いわゆる「撮り鉄」問題が浮上してきましたが、それより前はせいぜい散発的に問題になる程度だった。
でもね、アンチダムもファンダムも変わらない、という観点でみれば、これからもっと、いやその話はPage3に続く。
