そんなわけで運命の1985年8月の出来事です

8月7日 ・初の日本人宇宙飛行士として土井隆雄、内藤千秋(現姓:向井)、毛利衛の3人が決定


 正直これはどうでもいい。いや「初の日本人宇宙飛行士」がどうでもいいんじゃなくて、これはあくまで「まだ決まった段階」なんでね、あーだこーだ言ってもしょうがないっつーか。
 そんなわけで・・・


8月12日 ・グリコ・森永事件で犯行グループから「くいもんの 会社 いびるの もお やめや」との終息宣言が送りつけられた。理由は、その5日前(8月7日)に自殺した滋賀県警本部長への香典代わりというもの


 え?そっち?と思われるかもしれませんが、実際この日のニュースはこの件でもちきりだった。

 グリコ・森永事件についてはココでも書いたけど、間違いなく昭和末期を代表するような大事件だった。それが(少なくとも表面的には)突然という形で、つか「こういう形」で終結するとは誰も思ってなかったと思う。
 というか、この日の夜に起こった「あの事故」を考えると、まるでグリ森犯グループが「あの事故」を予見していたとしか思えない。いや思えないとまでは言えないけど、偶然にしてはタイミングが完璧すぎる。
 もしあれ以上引っ張っても完璧に「あの事故」にかき消されていたのは確実で、よくもまああそこで幕をひいたと思う。
 グリ森犯グループは目的さえよくわからないレベルの稀代の知能犯ですが、それにしてもこんなオカルトじみたことまでやってのけたって、本当に未来人だったんじゃないか、とすら思ってしまいます。


 もくてき?そんなもんないで

 ただちよつと あそんだだけや

 日本ごたいぷらいたーつこたんも

 まだ わーど とかなかつたからな

 へんかんもできんし ほんまうちにくくてしようがなかつたわ

 まあおもろかつたから ええやろ



 そして・・・

 ここで話を思いっきり矮小化します。
 高校生、ということは、んでこの日が8月ということは、言うまでもなく夏休みということになります。
 夏休みったって別にアルバイトをしてるわけでもなく、暑いなぁ、と思いながら昼日中からダラダラしてただけです。つか友達もいない、いわゆる<ぼっち>だったアタシは家にいるしかなかったわけです。
 何しろ夏休みだったので学校がある時とは生活リズムは変わっている。Page1で「2回に分けて寝ていた」と書いたけど、夏休み=何時まででも寝てられるので、たしか朝方に寝て昼過ぎに起きるみたいな感じだったはずです。
 その頃<ぼっち>のアタシの唯一の趣味と言えば、深夜劇場とか野球とかテレビドラマを見るのも好きだったけど、まァ「マイコン」ということになる。
 マイコン、今のパソコンの昔の言い方ですが「ルックバック」であまり専門的なことを書いてもしょうがないので「月刊ログイン」1985年8月号に掲載されている、当時のマイコンゲームソフトランキングを載せておきます。

 「ハイドライド」や「イー・アル・カンフー」、「ロードランナー」あたりはファミコンにも移植されたのでそれなりに知名度はあるはずですが、あとはどうだろ。
 あとついでに、1985年8月号(なんと創刊号!)の「ファミリーコンピュータMagazine」の目次も貼っつけておく。

 たぶんアタシはMSX向けの「イー・アル・カンフー」(コナミ)やMZ-1500向け「ロードランナー」(ソフトプロ)あたりは遊び尽くした後で、おそらくわりと長い間遊んでいたMSX向け「王家の谷」(コナミ)をやってたんじゃないか。もしくはランキングには入ってないどMSX向け「モピレンジャー」(コナミ)か、それともファミコンの「スパルタンX」(任天堂/アイレム)か。
 とは言え「王家の谷」にしろ「モピレンジャー」にしろ「スパルタンX」にしろ、発売からちょっと時間が経っていたので、そこまで熱心にやってたとは思えず、たぶんずっとテレビを見てたと思うんですよ。

 当たり前だけど、この日の夕食がなんだったか、憶えてるわけがない。つか憶えてたら怖いわ。昨日食ったもんすら忘れるほど記憶力が悪い人間なのに。
 とにかく夕食を食ってね、その後も自分の部屋に戻って、自分専用のテレビ、専用たって型落ちの古い家具調のヤツだけど、で、とにかくボヤーっとテレビを見てたと思う。

 あんまりDailymotionの埋め込みはやりたくないんだけど、他にないんで。

 しかしよりによって、テレビ朝日は谷啓さん司会の番組(月曜スペシャル90「あの60年代ポップス 東京・ロス熱狂ライブ 悲しき街角からオンリーユーまでオリジナル全40曲」。ちなみに「ドリフターズ」とあるのは、いかりや長介がリーダーのあのグループではなく本家の方だと思われる)かよ。まさかこの事故と谷啓さんの関わりがあるとは。つかたぶんテレビ朝日が第一報を出したってことか。
 正直、何の番組を見ていたのかの記憶はさっぱりない。谷啓さんの番組を見ていたのか、「トップテン」を見ていたのか、月曜ドラマランドなのか。さすがに「水戸黄門」とホロコーストは見てなかったと思うけどさ。
 ただしこの日は月曜日だったので(つまり試合がないので)野球を見てたわけではなかったことはたしかです。
 とにかくどのチャンネルでもこのような形で臨時ニュースに切り替わってたはずです。チャンネルをガチャガチャやって「どこも同じやな」と思ったかすかな記憶はある。

 しかし、この後、旅客機の行方がわからなくなった、どうも長野県あたりに不時着したのでは、というところから、続報がなくなった。ニュースは延々この事故のことを報じているのに、とにかく新しい情報が入ってこない。
 そのうち各ニュース番組(臨時含む)は乗客者リストを読み上げ始めた。さらに深夜になると画面いっぱいに全員の名前を表示した形で読み上げ続けました。
 これが後の「NNN臨時放送」(フェイク動画というか一種の恐怖系ジョーク動画)の元ネタと言われるのですが、ま、とりあえずそれも貼っておきます。

 しかしアタシの薄い記憶では、こんな不気味な感じではなく、良くも悪くも淡々としたもので(当たり前だけどテレビで実在の人物の名前を出しておいて不気味なテイストになんか出来るわけがない)、終わりまで読み切るとまた最初から、という感じでした。

 どの時点で乗客者名簿にある「オオシマヒサシ」というのが、あの「上を向いて歩こう」の坂本九のことだ、と報じられたのかの記憶はない。しかし深夜の、要するに「NNN臨時放送」の元ネタをやってた深夜帯の時点では「オオシマヒサシ=坂本九」であることはわかっていたのは間違いない。
 夏休み。次の日の予定なんか何にもない。楽しみにしている深夜劇場もこの事故の臨時ニュースで休止。ってもこの日関西で予定されていた深夜劇場は「皇帝円舞曲」だけだったみたいです。これ、名匠ビリー・ワイルダー監督作品なんだけど、1948年とめちゃくちゃ古いミュージカルなんだよね。深夜劇場でここまで古いのをやるのは珍しい。

 とは書いたけど、本当に予定されていた番組が全部なくなって臨時ニュースになったかどうかは確かめようがない。何しろ「臨時」なので新聞や当時のTVガイドから確認出来ないので。

 アタシはひたすら乗客者リストが流れ続けるだけの番組を見ていた。何も新しい情報が入ってこず、ブラウン管に無限ループで乗客者リストが写し出されている。
 当時だからスマホなんてない。「ながら見」ではなく、さりとて別に集中しているわけでもなく、本当にただただ、ブラウン管を眺めていた。おそらく頭の中は空っぽだったと思う。

 唯一「オオシマヒサシ」という名前だけには反応した。そのうち「後何分でまたオオシマヒサシの名前が出るかな」という不謹慎きわまる<遊び>までやり始めた。
 と言ってもそんな<遊び>が面白いわけではない。つか面白いわけがない。でもそんなことしかすることがなかった。

 いくら高校生でも坂本九もいう名前と「上を向いて歩こう」という楽曲は知っていた。すでに昭和オタク(と言ってもこの時点ではまだ昭和なんだけど)に片足を突っ込みかけていたので、どれほど偉大な功績を上げていたのかくらいは諳んじていました。
 しかしこの時点での坂本九は「テレビタレント」としては黄昏時もいいところで、たまにクイズ番組なんかのパネラーとして出る程度。<歌>はというと、「懐かしの」と冠がつく番組か、当時よくあった「テレビ◯◯年史」のような番組で「これしかヒット曲がなかったのか」と思えるくらいひたすら「上を向いて歩こう」を歌わされていた。


 アタシが坂本九という人の能力に気がついたのはかなり後年になってからです。
 というか、あれだけ偉大な歌手なのに、何でも器用にこなすバラエティタレントだったのに、世間的な再評価のタイミングがまったくなかった。
 とくに「九ちゃん!」という坂本九の冠番組の構成者でもあった作家の小林信彦がこれでもか、と言うほど坂本九にたいして辛辣に書いたので、評価が見えなくなった側面はありました。
 小林信彦の短編小説に「ビートルズの優しい夜」というものがあって、所属プロダクションの社長にタテをつく「人気タレント」はあきらかに坂本九がモデルであり、日本テレビのプロデューサーだった井原髙忠(を思わせる登場人物)に「鳥羽邦彦(≒坂本九)には何の才能もありませんよ」とまで言わせている。

 これは非常に狡猾な<やり方>で、自分の分身にだけそういうセリフを吐かせるだけならともかく、もし仮に井原髙忠がこういうことに類する発言をしていたとしても、そこは普通「作者の感想」にすべきであり、正直読んでて気分が悪い。
 そもそも小林信彦の言うところの<才能>とは何を指すのか、アタシもかなり多くの小林信彦の著作を読みましたが、いまだにわからない。というかものすごく「個人の感覚だけ」としか思えない。

 では本当に坂本九に才能がなかったのか。何しろ全盛期のリアルタイムに間に合ってない世代なのでアタシにはわかりません。
 しかし現在残された映像を見ると、どうも小林信彦の言うことが疑わしく感じてしかたがない。
 映画にしろバラエティ番組にしろ、そして<歌>にしろ「<偉大>と言われるほどかはわからないし、かなり小粒かもしれないけど、間違いなく<煌めき>は感じる」というのがアタシの坂本九感です。
 坂本九しか持ってない、人を惹き込む力は、ある。それが<芸>なのかなんなのかはどうでもいい。「坂本九しかダメだ」「いろいろバリエーションはあるけど、やっぱり坂本九のが一番いい」と言いたくなる<何か>は確実にあるんです。

 だから、としか言いようがないのですが、今になって思えば「坂本九には長生きして欲しかった」と痛切に思う。老境になって、声も出づらくなって、それでもかつてのヒット曲を歌う坂本九を見たかったと本当に思う。というかもしかしたらこの人は老境になってから「本当の<味>」が出たタイプじゃないか。
 ・・・でも、そんなこと、高校生にわかるわけがない。坂本九がこの世からいなくなる、それがどういう意味なのかなんてわかるわけがない。せいぜい「そうか。坂本九、ダメかもしれないのか。残念だなぁ」くらいが関の山だったんです。

 犠牲者になったのは当然坂本九だけではない。坂本九を含む520名の尊い命が失われた。
 ハウス食品の社長もそうですが、とくにアタシがショックを受けたのが阪神タイガース球団社長であった中埜肇が犠牲になったことです。

 1985年8月の阪神は優勝争いのデッドヒートの真っ直中で、広島東洋カープと讀賣巨人軍と激しい首位争いをしていた。当時解説者だった長嶋茂雄は「(阪神の優勝は)時代の要請」とまで言ったものの、なかなか抜け出せずに、というか「惜しいところまで行くけど結局勝ち切れない<いつもの>阪神」になりかけていた。
 中埜肇の事故死は「悪い方」の影響をチームにもたらしていた。11日終了時点では2位広島に1ゲーム差の首位だったのに移動日(事故当日)を挟んで事故翌日の8月13日から20日にかけてなんと6連敗して首位から陥落。首位広島に2.5ゲーム差、2位巨人にも1.5ゲーム差つけられ3位まで転落してしまった。当時はまだ「死のロード」と言われてる頃でしたが、文字通り<死>、つまり完全に失速してしまったのです。

「中埜さん、アンタの弔い合戦になるか思って期待してたけど、やっぱりアカンみたいやわ。阪神はやっぱり阪神やわ・・・」

 しかしここから阪神は盛り返した。途中クローザーの山本和行がアキレス腱断裂で残りのシーズン絶望という悲劇こそあったものの、チームの勢いは加速し、10月16日、ついに21年ぶりとなるリーグ優勝を果たしたのです。

 このリーグ優勝は中埜肇球団社長の事故死抜きには語れない。
 もう一度言いますが、あの事故以降、いやその前からか、チームは空中分解寸前だった。これは翌1986年と翌々年の1987年に露呈することですが、正直首脳陣も一枚岩とは言い難く、選手側にも首脳陣への不信感もあって距離が出来つつあった。
 この年監督だった吉田義男は「チーム一丸となって」と繰り返しましたが、裏を返せば「チーム一丸と」なってなかったことを意味する。
 しかし中埜肇球団社長の死がそれを変えた。全員がいろんなことを飲み込んで、とにかく中埜さんのために頑張ろうと一丸になった。
 中埜肇さん、あなたの死はけして無駄ではなかった。あんなことがあったから球団創設以来初めての日本一を勝ちとることが出来た。だから当時を知る阪神贔屓は中埜肇さんに足を向けて眠れないはずです。

 この件の最後にちょっとだけ日本航空についても触れておきます。

 アタシは航空マニアでもなんでもないけど、それでも、それこそANA(全日空)などとは設立の経緯がまったく違うことくらいは知ってます。
 Wikipediaにも『日本政府主導による半官半民の体制』とあるように、鉄道で言えば国鉄に近い存在だった。アタシが生まれた頃にはANAもありましたが、そうした経緯のせいか、なんとなくワンランク上のイメージさえあったんです。
 さらにアタシの中では1983年に放送された「スチュワーデス物語」のイメージも強く、もちろんその名の通りスチュワーデス(現在のキャビンアテンダント)の育成を描いた(トンデモ)ドラマだったんですが、このドラマに日本航空は全面協力していた。つまりそういうことにも寛容で、そんなオカタイイメージでもなかった、というか。

 しかしこの事故以降、日本航空のイメージは急速に悪化した。もちろんこれが初めての事故ではない。わずか3年前の1982年には「逆噴射」というワードで知られる「日本航空350便墜落事故」も起こしている。
 でもさすがに事故のスケールが違いすぎる。500名以上の死者を出したという、これは現在でも世界で史上最悪の航空機事故であり、令和の今でも様々な陰謀論が渦巻いている。というかこの事故<だけ>にスポットを当てるYouTubeチャンネルさえ存在するくらいです。
 だから「陰謀」とか「癒着」とか「隠蔽」とか、そのようなワードが日本航空自体について回るようになってしまった。もちろんこれだけの大事故を起こしたわけですから、そう言われるのもある程度しかたがないことではあるとは思うのですが、それでも事故から2026年で41年。「風化させてはいけない」とは言うけど、さすがにいつまでも色眼鏡で見るのは違うと思うのですがね。

 そんなわけでPage3に続く。ってメインの123便の話はこれで終わりじゃないの!?って?終わりですよ。でもこれで終わらないのが1985年夏の恐ろしいところで。とにかく続く。

次のページ→