年が明けて1997年になりました。
 Page3でも書いたようにアタシは現地妻候補もといカノジョとの本懐を遂げたのですが、ひとつ心配なことがあった。それはいつまで経っても1月分の収録日が決まらなかったのです。

 当たり前ですがラジオ番組にはスポンサーがいる。アタシたちの番組が作られたのもスポンサーがいたからです。
 しかしこのスポンサーとなってくれた企業がキナ臭くなったというか、本業がヤバいという噂は耳に入っていた。
 このスポンサーを見つけてきたのもリーダーで、まずスポンサーありきでいろいろ当たった結果、福岡のコミュニティFMでの番組と言うことになったらしい。
 さすがにこれはヤバいとなって、リーダーも新しいスポンサーを探すために奔走したらしいですが、芳しい結果は得られなかった。当然スポンサーがなければ番組は継続出来ません。
 もしこれが、アタシたちが全国で知られるようなユニットだったら局も全力でスポンサー探しをやっただろうけど、所詮は大阪でちょろっと活動してたレベルの無名グループです。たしかに番組の評判は良かったっぽいんだけど、無理矢理継続するほどのもんでもない。

 結果から言えば、福岡でのラジオ番組はたった3回、3カ月で頓挫した。これでユニットを継続させる意味が極端になくなった。
 しかもこの頃からリーダーのやる気が如実に落ちてるのがハタから見てもわかった。何度か全員で集まろう、ほんで今後の善後策を協議しようとなったんだけど、何故かなんだかんだ理由をつけてリーダー<だけ>が現れず、このまま行ったら解散だな、という空気が濃厚になっていったんです。
 この頃、アタシはメンバーのひとりと非常に仲良くなっていた。この男、かなり複雑な家庭環境で、しかし他人の心がわかる本当に良いヤツでした。
 いやわかるどころの話じゃない。この男は異様なほど霊感が強く、今回はオミットするけどアタシは彼の霊感のおかげで命を救われたこともある。オカルト嫌いのアタシですが、この男のことだけは信じていました。
 っても本人も「こんなもんは見えない方がいい」と言ってたくらいで、積極的に霊感がどうのというタイプじゃない。むしろそういう話を嫌がった。もう、そういう話をするのは、これは言わないと自分が後悔する、仲の良い人が酷い目にあって欲しくない、そういう時だけです。しかも相当ギリギリになって、本当はこんな話したくないんだけど、みたいな苦悶の表情でね。それくらい嫌がってたと。

 じゃあ普段は何を喋っていたのかというと、もうひたすら馬鹿話で、しかも彼とは何故かお互い「お父さん」と呼び合ってた。たぶんいつしかの冗談から発展してこんなことになったんだろうけど、それこそハタから見たらお互いにお父さんと呼び合うとか異様な感じに見えたはずです。あ、ちなみにココで書いた「FM TOWNS マーティーを買って、人生最初で最後のエロゲをやって爆笑した」ってのはこの男との話です。
 ま、とにかくここからはお父さんと書くけど、メンバーの中でお父さんだけがユニット存続に意欲を見せていた。そうは言ってもリーダーの人間性はよくわかっており、何しろアタシと友人のふたりが招集される前からの付き合いだからね。
 それを換算しても「いや、やっぱりこの6人でやった方がいい」という判断をしたのですが、何しろあそこまでリーダーがユニット存続の意欲がないとやりようがない。

「お父さん、あの人にもう一回頼んでみませんか?」

「あの人って元憂歌団のマネージャーの?」

「そうです。あの人が正式にマネージャーを引き受けるとなったら、さすがにあのリーダーもやる気を出すはずです」

「そうは言ってもですねお父さん、前に断られたじゃないですか。もうその世界から足を洗ったからって」

「でもダメ元で、もう一回やってみましょうよ。ね、お父さん」

 そんなわけで、たしか1997年2月、アタシとお父さんは、お父さんの8人乗りワゴン車で、ま、九州内まではフェリーだったけど、わざわざ「憂歌団の元マネージャーを口説くために」、たったふたりで福岡まで行った。
 結果は言わずもがなで、やっぱり無理だと。そしてはっきりこうも言われた。

「悪かけんねぇ。ばってん、正直言うて、一回足を洗う決断したのを覆すほど、オタクらのユニットに魅力を感じんのよ」

 もう事実以外の何物でもない。たしかにアタシたちのユニットは「メディアに大々的に乗っていく」には実力が足りない。しかも何しろアタシがビジュアル担当になるほどだからルックレベルも高くない。そりゃ売れると思う方がどうかしてる。というかさすが業界でやってきただけあって、売れるかどうかの目利きはちゃんとしてる。
 帰りのフェリーに揺られながら、星が瞬く空を見上げていたわけじゃないけど(九州に行ってただけだから。ラバウルじゃないから)、とにかくデッキの上での会話は憶えている。

「お父さん」

「やっぱ無理でしたね」

「もう解散かな」

「しょうがないですね。でも僕らだけで新しいユニットを作ったらいいじゃないですか」

「ま、それはそうなんだけど・・・」

「それはそうと、何でリーダーのやる気がなくなったか知ってます?」

「ラジオ番組がなくなったからでしょ」

「それが違うんですよ。実は11月の時点でかなりやる気が落ちていた」

「どういうことです?」

「あのアンケートですよ。ほれ、お父さんがカッコいいだのなんだと書かれてた。あれで嫌になったっぽい」

「え?いやいや、ま、アタシがどうかはともかく、リーダーは自分が一番カッコいいと思ってたんですか?」

「どうもそうみたいで」


 ぶっちゃけ、リーダーは悪い顔ではなかったけど、<顔>だけでチヤホヤされるような感じでもない。でも自己評価はそうだったんだ。んでチヤホヤされて、しかも現地妻候補までゲットしそうになってたアタシに嫉妬してたんだ・・・。
 そんなことを言われてもって感じです。つかさ、アタシだって、Page2でも書いたように、あんなアンケートなど悪夢でしかないんですよ。つかもしリーダーがビジュアル担当になりたいんだったら喜んで譲った。どう考えてもアタシでは能力不足だし。

しかし・・・
こんなしょーもないことで
ユニットなんて簡単に崩壊するんだな・・・


 Page1の冒頭まで話を戻しますが、結果的には何のために仕事を辞めてまで神奈川県茅ヶ崎市から関西に帰ってきたのか。もう完全に無意味になった。
 友人とやってたユニットは吸収という形で消滅したし、んで今度は吸収先のユニットまで解散。つまり完全にやることがなくなった。
 お父さんの言う通り、新しくユニットを作ればいいじゃないかというのはその通り。実際、アタシとお父さんを中心とした4人組のユニットを結成したりもしたけど、こうなってくると「そもそも」の話にもなってくる。つまりは

そもそもアタシはそこまでレゲエが好きではない

 と言うね。
 わざわざ毎月(っても3ヶ月だけだけど)福岡にまで行ってラジオ番組までやってたユニットは解散し、アタシとお父さんのユニットの活動は細々レベル。残されたのは空虚な思いだけ。
 そんな空虚な思いを埋めるが如く、アタシは馬車馬のように働いた。昼はドカタ、夜はクラブと冗談抜きに寝る間もないほど働いた。
 何つーか、もうそうでもしないとやってられなかったのです。
 だいたいアタシの人生はカネを持ってるか持ってないかで良い時期か悪い時期か測れます。実際、自死まで意識した2018年はカネが湯水の如く消え、手持ちのカネがまったくなくなったし。
 しかしこの時ばかりはそうじゃない。何しろ馬車馬のように働いていたんだからカネはあった。んで遠距離恋愛とは言え、さらにココで書いたようにいろいろあったとは言え、カノジョとの信頼はより深くなっていっては、いた。

 アタシは1997年の秋に福岡に移住することにするのですが、何故福岡なのかの理由はカノジョが福岡在住だから。もうそれしかない。
 しかし何故移住しようと決意したのか、それは単刀直入に言えば「もう大阪に居たくなかった」からです。つまり大阪以外ならどこでも良かった。たまたまカノジョが福岡だったから福岡にしたけど、それこそ関西に戻ってくるまで住んでた茅ヶ崎も考えた。
 とりあえず引っ越し出来るくらいのカネはある。ましてや福岡は茅ヶ崎なんかに比べたら家賃が安いし、まあ行ったら行ったでどうにでもなるだろ、と。ま、まだ若かったしね。ギリギリ20代だったから。
 つまり、もうそれくらい、大阪から、というよりはユニット関連から離れたかったのです。たしかに唯一、お父さんだけは本当によくしてくれたし、まだ馬車馬になって働き始める前の金欠時代はよく飯もご馳走してくれた。つまり物心両面で面倒を見てもらったと言っても過言ではない。
 だとしても「レゲエ版ドリフターズ」なんて途方もないほどのデカい夢を描いてしまったせいで、もう何をやっても敗戦処理にしか思えなくなっていた。

ごめん、お父さん

アナタには本当に世話になったけど

もう辛くてしょうがないから一旦大阪から離れるわ

今後どうなるかわからないけど

アナタから受けた恩は一生忘れない


 このエントリは本来、1996年の福岡について書くためのものです。しかし完成度を下げてでも、もうちょっと大阪の話を続けたい。
 アタシが働いていたクラブがあったのは難波にあった。つか御堂筋沿いにあった。過去形なのはつまり現存しないってことなのですが。
 クラブが入ってた雑居ビルの一室で、いろんなことがあった。ユニットとはぜんぜん関係ないオイシイ思いもしたし、お父さんと馬鹿話をして死ぬほど笑った思い出もある。明け方までやってるって理由で、クラブが終わってからまだ大阪にしか店舗がなかった「つるとんたん」にもよく行った。
 今考えればですが、もし青春時代と思える時期を挙げろとなったら、間違いなくこの時期です。そりゃ大学時代も楽しかったけど、わずか1年足らずのこの時期には及ばない。それくらい楽しかった。
 同時に「同じくらい苦しかった」と思えるからこそ青春時代と言えるわけで、ギリギリ20代という年齢を考えるなら遅すぎる青春時代だけど、良くも悪くも本当に<夢>だけ見てたのはあの頃だけだった気がする。

 お父さんには「<一旦>大阪から離れる」と言ったものの、結局あれ以来大阪には住んでいない。つか何度も書いたように「もう二度と関西に住むことはない」と断言していますし。まあ、ココでも書いたように、本当にアタシの終の棲家が東京になるかはわからないんだけど、そうなればいいと思いながら動いているのは事実です。だから今後、大阪は<遊びに行く場所>になってしまったということになるわけで。
 そしてやっぱ最後は福岡についても書いておくか。
 2025年、実に10年ぶりに福岡に遊びに行ったのですが、ここまでお読みいただいたらお分かりのように、アタシにとって福岡は「短期間在住した<だけ>」の場所ではない。むしろ再スタート元年が、元年はおかしいか。再スタートの出発地点が福岡なのです。だからただたんに遊びに行っただけなのに、妙に引き締まった気持ちになるし、何とも言えない郷愁に襲われる。

 2026年現在、天神は「天神ビッグバン」と呼ばれる大規模再開発の真っ最中です。
 たしかに天神は変わった。もはや記憶に残る場所はほとんど残っていない。でもアタシには1996年、初めて天神という街に来た時に見た光景と二重写しになる。そんな場所って実は福岡だけなんですよ。






存分に時代の空気感を味わってもらいながらアタシの経験談を読んでもらいたい、そうした意図で、なるべく時代の空気感が感じられる固有名詞を出しながら(稲中卓球部なんてこんな内容じゃなければ永遠に書くことないよ)、何とかかんとか仕上げました。
しかし最大の目的は「30年前の忘れ物」をしっかり書き残しておきたかったからで、この記憶があったからこそ、忘れ物を取りに行くためにあらたなチャレンジを始めた。もちろんそれが「他人さんが神輿を用意した状態の番組に、アシスタント的立場で生配信に参加する」ということなのですが、間違いなくこの出来事がなければこうしたチャレンジはしていない。それほど心残りだったと。
そのためだけに、果たしてこんな長文を書く必要があったかは疑問ですが、この際洗いざらい書いてしまおうと。洗いざらいのわりにはかなりボカしてるのも事実だけどさ。




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